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第3章
料亭を出ると、生ぬるい夜風が頬を撫でた。しかし、胸の内で渦巻く怒りと吐き気は、どうしても消え去らなかった。 円はすぐに家に帰らず、近くの静かな公園のベンチに腰を下ろした。彼女は無理やりにでも自分を落ち着け、考えを整理しようとした。 彼女はあの部屋でのあらゆる細部を思い返した。 ふと、彼女はある違和感に気づいた。部屋中に漂っていた、あの微かな甘い香り。それはただの芳香ではなかった。 スイスで学んだ化学の知識が、記憶の奥底から答えを引きずり出した。 それは精神作用と催淫効果を誘発する薬草を調合した香りだった。 胃の底から激しい不快感がこみ上げてくる。健と綾子は、ただ密会していただけではない。彼らは薬物を使って情事に耽ろうとしていたのだ。健への嫌悪感は、沸点を超えた。 それと同時に、彼女は自分の体に異変が起きているのを感じ始めた。 体がほのかに熱を帯び、呼吸も次第に速くなっていく。自分も少なからず、あの香りを吸い込んでしまっていたのだ。 円は直ちに警戒レベルを引き上げた。この状態では、どちらの「家」にも帰るわけにはいかない。 彼女はスマートフォンを開き、健の連絡先をすべて削除した。弁護士の番号だけを残して。 彼女は弁護士に短いメッセージを送り、大まかな状況を説明し、離婚協議書の作成と証拠保全手続きの開始を指示した。 それをやり終えた瞬間、激しい目眩に襲われた。薬物が本格的に作用し始めたのだ。 正気を失う前に、安全な場所を見つけなければならない。 立ち上がろうとしたその時、スマートフォンが鳴った。健からだった。円はためらうことなく着信を拒否し、その番号を着信拒否した。 すると、立て続けにメッセージが届いた。 『西園寺円、電話に出ろ。すぐに俺のもとへ戻れ!』 その命令口調の文字に、円の口元には冷ややかな笑みが浮かんだ。健の反撃が始まったのだ。 それならば、先手を打つまでだ。 『離婚協議書は、弁護士を通じてあなたの会社にお送りします。慰謝料のお支払いが完了するまでは、私も法律上はまだあなたの妻です。私に手を出せば、それは夫婦間の暴力です。罪が一つ増えるだけですよ』 送信ボタンを押した後、さらに強い目眩が彼女を襲った。彼女は自分の意志の力を過大評価し、薬の効果を過小評価していたのかもしれない。 足元のおぼつかないまま公園を出ようとした時、入り口に二人の黒服の男が立っているのが見えた。 荒木家のボディーガードだ。健が既に手を回したのだ。 円の背筋に冷たいものが走り、彼女はすぐさま向きを変え、公園の暗がりへと走った。 後方から男たちの追ってくる足音が聞こえる。薬の作用で、体力が急速に奪われていく。 円はとっさに、着ていたジャケットとスマートフォンを茂みの中に投げ込んだ。 案の定、ボディーガードたちの注意はそちらに引きつけられた。その隙に、円は大木の影に身を潜め、ひとまず彼らの視界から逃れた。 しかし、時間の問題だ。必ず完全に撒かなければならない。 頭脳を高速回転させる。 そうだ。母が遺してくれた、あの場所へ行こう。 円は公園の別の出口からそっと抜け出し、記憶を頼りに古びた商店街へと入り込んだ。 彼女は二十四時間営業のコンビニに飛び込み、ミネラルウォーターとマフラーを買った。髪を乱し、マフラーだけで頭を覆い、簡単な変装を施した。 店の裏口から出て、追手がないことを確認すると、彼女は本当の目的地へと向かった。 追跡を完全に撒くために、彼女はタクシーを使わなかった。 薬の作用と極度の緊張で、意識は朦朧としていた。しかし、復讐の強い意志だけが、彼女の両足を前へと進ませていた。
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全80章
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