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第2章 最強の後ろ盾

佐藤家の重厚な鉄の門の前に立った静恵は、自分が三年間、丹精込めて手入れしてきた日本庭園を眺め、こみ上げてくる吐き気を必死にこらえた。この美しい景色の一つ一つが、今や醜悪な偽善の象徴にしか見えない。 呼び鈴を鳴らそうとした、その瞬間。 ポケットのスマートフォンが再び震えた。先ほどの探偵からの、緊急のメールだった。 「ご依頼の件、確認が取れました」 添付ファイルを開く指が、かすかに震える。 そこには、佐藤健吾と栗山亜矢がに入籍済みであることを示す、公的な書類のスキャンデータが添付されていた。 さらに、もう一つのファイル。 産婦人科の超音波検査報告書。 栗山亜矢、妊娠十二週。 画面に映し出された小さな黒い影。それが、すべての答えだった。 最近、義母の恵津子が亜矢に対して見せる、あの異常なまでの優しさの理由。先週、家族の会食で、静恵が子供を産めないことを理由に、恵津子から浴びせられた罵詈雑言。すべてが、この小さな命のためだったのだ。 静恵は、門の透かし彫りの隙間から、庭の奥に目をやった。 案の定、恵津子が亜矢の腕を優しく取り、ゆっくりと庭を散策している。 「亜矢さん、お願いだから無理はしないでね。あなたのお腹の子は、佐藤家にとっての宝なのだから」 恵津子の顔には、静恵が一度も向けられたことのない、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。 亜矢は、まだほとんど膨らんでいないお腹を、わざとらしく撫でながら、甘えた声で答える。 「お義母様、ご心配なく。必ず、元気な男の子を産んでみせますわ」 静恵は、冷たい鉄の格子を強く握りしめた。指が食い込み、痛みを感じる。 夫だけではない。 この佐藤家全体が、共謀して自分を欺いていたのだ。 自分は、彼らの世間体を守るための、ただの道具だった。 その時、静恵のもう一つのスマートフォンが、静かな音を立てて震えた。仕事用の、暗号化された番号からの着信だった。 静恵は咄嗟に身を翻し、門の脇にある石柱の影に隠れた。ディスプレイには「非通知設定」と表示されている。 『……もしもし』 警戒しながら電話に出ると、受話器の向こうから、低く、重みのある男の声が聞こえてきた。 『遠藤静恵さんかね。金剛ホールディングスの近衛だ』 近衛正弘。日本の経済界を裏で牛耳るとまで言われる、財界の重鎮。その名を知らない者はいなかった。 静恵は息を飲んだ。なぜ、この男が自分に? 「驚くのも無理はない。君のことは、ずっと見ていたよ。佐藤の嫁としてではなく、一人のビジネスパーソンとしての君の才能を、だ」 近衛の情報網の恐ろしさに、背筋が凍る。しかし、静恵は動揺を悟られまいと、努めて冷静に問い返した。 「……ご用件は、何でしょうか」 近衛は、まるで全てを見透かしたように、静かに、しかし衝撃的な言葉を口にした。 『単刀直入に言おう。私の孫、鷹司暁と結婚したまえ。そうすれば、金剛ホールディングスの全てが、君の後ろ盾となる』 鷹司暁。帝都グループを率いる、若きカリスマ。 政略結婚。 あまりに突飛な提案に、静恵の頭は混乱した。しかし、彼女の思考は瞬時にリスクとリターンを計算し始める。 これは、佐藤家を根底から叩き潰すための、最強の武器になるかもしれない。 『考える時間は必要だろう』と近衛は言った。『だが、急いだ方がいい。佐藤家は、君が心血を注いできた新都心プロジェクトの資産を、水面下で君の名義から動かしている。君を、無一文で追い出すつもりだよ』 その言葉に、静恵の瞳に鋭い光が宿った。あのプロジェクトは、自分のすべてだった。それを奪われることだけは、絶対に許せない。 『……証拠は、おありですか』 『フッ』と近衛は短く笑った。『君のプライベートアドレスに、今送った。確認したまえ』 メールを開くと、そこには佐藤家の資産移動を示す、詳細なデータが添付されていた。彼らの陰謀は、静恵の想像をはるかに超えて、周到に進められていたのだ。 静恵は、石柱に背を預けたまま、深く息を吸った。 そして、決意を固めた。 『……お受けいたします。その取引』 電話の向こうで、近衛が満足げに頷く気配がした。 通話を終えた静恵は、数秒間、影の中で目を閉じた。怒り、憎しみ、絶望。渦巻く感情を、心の奥底へと押し込める。 再び庭に目をやると、恵津子と亜矢が、高級なアフタヌーンティーを楽しむために、母屋へと入っていくところだった。 静恵は、ハンドバッグからコンパクトミラーを取り出した。 口紅を塗り直し、髪の乱れを整える。 鏡に映る自分の顔から、全ての感情を消し去る。 そこにいるのは、いつもの、完璧で、非の打ちどころのない、貞淑な妻、遠藤静恵。 その完璧な仮面を被り、静恵は石柱の影から出た。 そして、佐藤家の門の呼び鈴を、指先で、そっと押した。 澄んだチャイムの音が、偽りに満ちた庭園に響き渡る。 屋内の笑い声が、ぴたりと止んだ。

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章一覧

全150章

  1. 第1章第1章 裏切りの証明
  2. 第2章第2章 最強の後ろ盾
  3. 第3章第3章 クローゼットの鼠

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