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第2章 偽りの廃人冷徹なる瞳の奥

半開きの扉の向こうから、紫煙と安っぽい香水が混ざって漂ってきた。 「おいおい、南雲財閥の三男坊様が、借りてきた猫みたいに縮こまってていいのかよ?!」 派手な柄のシルクシャツを着崩した金髪の男が、グラスをテーブルに叩きつけた。 琥珀色の酒が波打ち、飛沫が飛び散る。 視線の先——フロアの中央に、一台の車椅子。 深く腰掛けた南雲光登は、黒いシルクシャツに身を包み、額にかかる黒髪で表情を隠している。 周囲の嘲笑に、一切の反応を示さない。 五年前の豪華客船爆発事故で聴力と言語を失い、一族の権力闘争から脱落した——『南雲の廃嫡』。 「おい、聞こえてないフリすんじゃねえよ!」 小太りの男が、汚れた靴の先で車椅子のタイヤを小突いた。 「五年前に両親と一緒にくたばっておけば、こんな無様な恥を晒さずに済んだのになあ? 言葉も話せねえ、耳も聞こえねえ木偶の坊が!」 男は下卑た笑みを浮かべ、グラスに残った酒を光登の革靴へ、わざと零した。 冷たい液体が黒い革を濡らし、絨毯へ染みていく。 車椅子の肘掛けに置かれた光登の指先が、わずかに動いた。 (……伊東の手回しが遅いな。あと一分、現れなければこの場で全員の首をへし折るか) 光登は廃人を装っている。 両親を謀殺した黒幕を油断させ、一網打尽にするための罠だ。 五感は失われていない。背後の気配も、男たちの筋肉の収縮も、血流の音すら読めている。 光登が無抵抗なのをいいことに、金髪の男はテーブルの灰皿を掴み取った。 水と吸い殻が混ざった汚い液体が、底に溜まっている。 「ほらよ、喉が渇いてんだろ? これを全部飲み干したら、今日のところは勘弁してやるぜ!」 灰皿の縁が、光登の鼻先へ突きつけられた。 小太りの男が光登の髪を掴み、無理やり顔を上げさせようと腕を伸ばした——その瞬間。 ドォンッ! 爆薬が炸裂したかのような轟音が、VIPルームを震わせた。 厚さ数センチのチーク材の扉が蝶番ごと吹き飛び、床の大理石へ激突して砕け散る。 「な、何だ?!」 金髪の男の手から灰皿が滑り落ち、濁った液体がぶちまけられた。 粉塵の向こうから、すらりと伸びた長い脚が、倒れた扉を踏み越えて現れた。 色褪せたジーンズに黒の薄手ジャケット。肩に使い古した帆布バッグ。 ——氷室晴美が、冷たい風を纏って部屋へ入ってきた。 「誰だてめえ! ここは俺たちの貸し切りだぞ! どこの田舎娘が入り込んできやがった!」 金髪の男が喚いた。晴美はその声を、完全に無視した。 視線は車椅子の足元へ。 酒に濡れた革靴と、左耳の裏にあるかすかな古傷を、静かに見つめている。 右手の親指が、左手首の内側に仕込んだ銀針のホルダーを、そっとなぞった。 「靴を拭きなさい」 低く、抑揚のない声だった。 その一言が落ちた瞬間、室内の空気が凍りついた。 「はあ?! お前、自分が誰に向かって口を利いてるのか分かってんのか! おい、この生意気なアマを捕まえろ!」 金髪の合図で、小太りの男が下品な笑みを浮かべて突進してくる。 「おいおい、よく見たら上玉じゃねえか。痛い目を見せて——」 太い手が晴美の肩に触れる直前、晴美の体がかすかに揺れた。 次の瞬間、右手が電光石火で伸び、男の手首の関節を正確に捉える。 「ぎっ……?!」 声を上げる暇もなく、手首のスナップを利かせて外側へ捻り上げた。 バキィッ! 骨が不自然な方向へ軋む音が、室内に響いた。 「ギャアアアッ! 腕が、腕がああああっ!」 小太りの男はくの字に折れ曲がり、床を転がって悶絶した。 取り巻きが一斉に息を呑み、金髪の男は顔から血の気を引かせて後ずさる。 車椅子の上で、光登がわずかに顔を上げた。 伏せた睫毛の隙間から覗く黒い瞳が、粉塵の中に立つ少女の横顔を、値踏みするように見つめていた。 (……関節技の初動に無駄がない。迷いのない力の流し方。何者だ?) 晴美は手首を軽く振った。靴の裏のゴミを払い落とすみたいに。 そして残りの男たちへ、冷たい視線を向けた。 「次は誰」

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章一覧

全60章

  1. 第1章第1章 真偽の令嬢が交錯し帝都の夜に潜む影
  2. 第2章第2章 偽りの廃人冷徹なる瞳の奥
  3. 第3章第3章 圧倒的な武力氷の令嬢の鉄槌

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