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第2章 砕けた身体消えた記憶
全身の痛みに苛まれながら、凛々泉は再び眠りに落ちた。どれほど経ったのか、彼女は激しい音に目を覚ました。病室のドアが、ノックもなしに乱暴に開け放たれたのだ。 そこに立っていたのは、長身で、寸分の隙もなく高級スーツを着こなした男――島本一成だった。完璧に整えられた髪、彫刻のように端正な顔立ち。しかし、その瞳に妻を気遣う色は微塵もなく、苛立ちだけが燃え盛っていた。 彼は大股でベッドに近づくと、まだ包帯が巻かれたままの凛々泉の腕を乱暴に掴んだ。 「いつまで寝ているつもりだ。立て」 「痛っ……!」 骨に響く痛みに、凛々泉は思わず顔をしかめる。その乱暴な扱いに、腕に繋がれていた点滴のチューブが大きく揺れた。 だが、一成は意にも介さない。 「その程度の怪我で大げさに騒ぐな」 さらに力を込めて腕を引き上げられた瞬間、ブチッと鈍い音が響いた。点滴の針が血管から強引に抜け、鮮血が真っ白なシーツへと飛び散る。 「あ……」 腕に走る焼けるような激痛と、生温かい血が流れ出る感覚に、凛々泉の意識は急速に遠のいていく。 シーツに広がる血の染みを見て、一成は一瞬顔をしかめたものの、すぐに「面倒な女だ」と吐き捨てた。自分が引き起こした事態の深刻さを、彼はまるで理解していなかった。 凛々泉の顔色が見る見るうちに青ざめていく。ピッ、ピッ、と規則的だった心拍モニターの電子音が、突如としてけたたましい警告音へと変わった。 ビィーッ、ビィーッ、ビィーッ! その異常な音に、一成はぎょっとしてようやく異変に気づく。 「おい、どうしたんだ」 その時、物音を聞きつけた看護師長の中村恵子が、血相を変えて部屋に飛び込んできた。 「大変! 斎藤先生を呼んで!」 中村は呆然と立ち尽くす一成を突き飛ばすようにしてベッドへ駆け寄り、凛々泉の腕にガーゼを当てて圧迫止血を始めた。その的確で無駄のない動きには、ベテランとしての気迫が滲んでいた。 「あなた、何をしたんですか?!」 中村の鋭い怒声に、一成は言葉を失う。目の前で起きている事態に、彼の優れた頭脳すら追いついていなかった。 数人の看護師と担当医の斎藤が駆けつけ、病室は一気に野戦病院のような慌ただしさに包まれる。凛々泉はストレッチャーに乗せられ、緊急処置室へと運び出されていった。 去り際、斎藤医師は冷え切った目で一成を睨みつけた。 「ご主人がやったんですか。……これは傷害事件ですよ」 その言葉を聞いて、一成の背筋に冷たいものが走った。取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれないという、漠然とした恐怖が胸を突き上げる。 数時間後、凛々泉は再び個室のベッドで目を覚ました。体のだるさは、先ほどよりもずっと重い。 ぼんやりとした頭で周囲を見回す。先ほどの騒動がまるで嘘のように、病室は静まり返っていた。しかし、シーツに残る乾いた血痕と、腕に走る新たな痛みが、あれが紛れもない現実だと告げていた。 その時、凛々泉は拭いようのない違和感に襲われた。頭の中に濃い霧が立ち込めているかのように、記憶の重要な部分がすっぽりと抜け落ちているのだ。 自分の名前が五十嵐凛々泉であることは分かる。崖から落ちたことも、おぼろげながら覚えている。だが、結婚生活の記憶も、目の前の男を愛していたという感情も、そのすべてがまるで映画のワンシーンのように他人事としか思えない。 (しま……もと……?) 夫の名前は、知識としては分かっている。だが、その名前にまつわる記憶も感情も、靄の向こうにある。それはまるで、自分ではない誰かの人生の記録を遠くから眺めているような、奇妙で不気味な感覚だった。 本当に記憶を失ってしまったのか。それとも、あまりの恐怖に心が記憶を閉ざしてしまったのか。 混乱する彼女の病室に、再び一成が入ってきた。今度は先ほどの激しい怒りは消え、どこか居心地の悪そうな、気まずい表情を浮かべている。 彼はベッドサイドに立つと、押し殺したような声で尋ねた。 「……大丈夫か」 凛々泉は、目の前に立つ男を見上げる。顔立ちは確かに整っている。身につけているスーツも腕時計も、一目で上等な品だと分かった。だが、彼女の心にはさざ波ひとつ立たない。ただ冷たく静まり返っているだけだった。 (この人は、誰……?) 本能的な警戒心が全身を駆け巡る。凛々泉はかすれた声で、目の前の男に問いかけた。 「……あなたは、誰ですか?」 その一言に、一成の表情が驚愕で固まった。 「何を言っている。俺だ、夫の――」 しかし、その驚きは瞬く間に侮蔑の色へと塗り替えられた。また新しい芝居を始めたのだと、彼は勝手に決めつけたのだ。 「また癇癪か? いい加減にしろ、そのくだらない演技は」 吐き捨てるように放たれた冷酷な言葉。だが、凛々泉にはその意味すら理解できず、ただ怯えと混乱の滲む瞳で、彼を見つめ返すことしかできなかった。
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