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第3章 私はあなたの妻じゃない
島本一成は、凛々泉の「あなたは誰ですか?」という問いを、同情を引くための新たな芝居だと決めつけ、唇の端に冷笑を浮かべた。 「その手はもう通用しないぞ、凛々泉」 彼はベッドへ一歩近づき、絶対的な権力者然とした態度で見下ろしてくる。 「俺は島本一成。お前の戸籍上の夫だ。忘れたとは言わせない」 その高圧的な態度に、凛々泉の体は本能的にこわばった。 この男が、夫? 信じられない。なぜ自分はこんな横暴な男と結婚しているのか、まったく理解できなかった。 恐怖から、彼女は枕元のナースコールをぎゅっと握りしめる。 「出ていってください。知らない人です」 その拒絶の言葉に、一成はわずかに眉をひそめた。 今までの彼女なら、こんな風に怯えたり、ましてや拒絶したりすることなど決してなかった。いつもは捨てられた子犬のように彼の機嫌を窺い、必死に媚びへつらってきたはずだ。 (何かが違う……) 一瞬よぎった違和感を、彼はすぐに打ち消す。これもまた、より巧妙になった演技なのだろう。 「くだらん。退院の準備をしろ。心結に謝りに行くぞ」 凛々泉は彼の言葉を完全に無視し、震える手でナースコールのボタンを何度も強く押し続けた。 すぐに看護師長の中村が、慌てた様子で駆け込んでくる。 「どうしましたか、五十嵐さん!」 凛々泉は救いを求めるように、中村の白衣の裾を掴んだ。 「この人を……外に出してください。不審者です」 その言葉に、中村は驚いて一成を見た。病院の書類上では、彼が夫として登録されている。 「五十嵐さん、この方はご主人の……」 「ほら見ろ」と言わんばかりに、一成は得意げな表情を浮かべた。 しかし、凛々泉は激しく首を横に振る。 「知らない。私はこの人を知りません。怖いんです」 その瞳には、演技とは思えない本物の恐怖が色濃く浮かんでいた。まるで捕食者を前にした小動物のような、純粋な怯え。中村は凛々泉の様子が尋常ではないと瞬時に判断した。 「……分かりました。すぐに警備を呼びます」 中村は冷静にそう告げると、内線電話で警備室へ連絡し、念のため警察へも通報を入れた。 事態が大事になったことに、一成は忌々しげに舌打ちする。 「面倒をかけさせる天才だな、お前は」 やがて、二人の警察官が神妙な面持ちで病室に到着した。一成は苛立ちを隠そうともせずに身分証を提示し、自分が夫であることを証明する。 警察官の一人が困惑しながらも、凛々泉に確認を取った。 「奥さん、こちらの方はご主人で間違いありませんか?」 警察という公的な存在の登場に、凛々泉は少しだけ安堵し、先ほどより落ち着いた声で答えた。 「戸籍上はそうなのかもしれません。でも、私には彼の記憶がありません」 その冷静な口調に、一成は逆に苛立ちを募らせた。泣き叫んでくれた方が、まだ対処のしようがあった。 そこへ担当医の斎藤も呼ばれ、状況の説明に加わった。 「事故の強い衝撃による、一時的な健忘症の可能性があります。特に、ご本人が強い精神的ショックを受けた出来事に関する記憶が、選択的に失われることは珍しくありません」 斎藤は一成の目の前に診断書を差し出した。 「奥様は絶対安静です。これ以上の精神的な刺激を与えることは治療の妨げになりますので、即刻お引き取りください」 一成はその診断書をひったくるように受け取ると、一読して破り捨てようとした。だが、警察官の厳しい視線に気づき、かろうじてその衝動を抑え込む。 彼は診断書が偽造だと決めつけて声を荒らげた。 「こんなもの、いくらでも偽造できるだろう! この女は昔から、そうやって人の気を引いてきたんだ!」 斎藤医師は心底呆れたように首を振る。 「ご主人のその言動こそが、奥様の精神状態を悪化させている最大の原因だと、なぜお分かりにならないのですか」 警察官も冷静に、しかし断固とした口調で一成に退去を促した。 「ご夫婦の問題にこれ以上は介入できませんが、奥様がこれほど強く拒絶されている以上、本日はお引き取り願います」 医師、看護師長、そして警察官――完全に孤立した状況に、一成のプライドはズタズタに引き裂かれた。彼は生まれて初めて、自分の思い通りにならない人間――五十嵐凛々泉をコントロールできないという現実に直面したのだ。 彼は憎々しげに凛々泉を睨みつける。 「覚えてろよ。その記憶喪失ごっこが終わったら、ただじゃおかないからな」 惨めな捨て台詞を残し、一成は警察官と医師たちに見張られながら、屈辱的な形で病室を後にした。 嵐が去った病室で、凛々泉は深く長い息をつく。 記憶はない。だがあの男が自分にとって危険な存在であることだけは、本能が警鐘を鳴らしていた。
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