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第2章
頭の奥が、爆発した。 激痛と一緒に、濁流のような記憶が流れ込んでくる。 薬草の匂い。鍼の重み。何千もの処方。数えきれないほどの脈。そして、人を無力化する手技と、急所の位置。 桐山秀代――関西の隠世の医門で「名宿」と謳われた女の、一生分の記憶だった。 結菜は、目を開けた。 ペルシャ絨毯に広がる血溜まり。 額から流れ落ちる、まだ温かい血。 ウェディングドレスの裾が、重く湿っている。 (……私は、死ぬつもりだった) それが、どこか遠い出来事に思えた。 怯えていたのは、さっきまでの自分だ。 床に手をつき、眩暈を堪えながら立ち上がる。 姿見に映った自分の顔を見て、秀代の記憶が即座に答えを出した。 (……奇病? 違う) 頬の腫れ。瞼の浮腫。血色の悪さ。 これは病気の顔じゃない。長期間、少しずつ毒を摂り続けた顔だ。 誰が、いつから。 秀代としての記憶が、静かに逆算を始める。 額の傷から血があふれるまま、結菜は結い髪を解いた。 抜き取った金の簪を、ためらいなく頭部の急所へ刺し込む。 経絡が反応して、あふれていた血が嘘のようにぴたりと止まった。 呼吸を整えた、そのとき――。 ノックもなく、扉が蹴り開けられた。 「若奥様、いつまで死んだふりをしてるんですかい」 古参の家政婦、柴田芳子だ。 腐った匂いのする冷水桶を、テーブルへ荒々しく叩きつけた。濁った水が跳ねる。 「この天闕財閥じゃ、飯だけ食う役立たずを養う余裕はありませんよ」 結菜は影の中から、ゆっくりと立ち上がった。 血に染まったドレスのまま、ただ芳子を見る。 芳子は一瞬、息を飲んだ。 だが背後に花奈がついていることを思い出し、甲高い声を張り上げた。 「何を睨んでるんだい! 総帥からは、勝手に野垂れ死にさせろって言われてるんだ。さっさと床の血を拭きな!」 汚れた雑巾が、結菜の足元へ放り投げられる。 結菜はそれを拾い上げ、指先に付いた血を丁寧に拭った。 無視されたと気づいた芳子の顔が、真っ赤に歪む。 大股で詰め寄り、結菜の髪を掴もうと太い腕が振り上げられた。 「この出来損ないが、いい気になりやがって――!」 結菜は眉一つ動かなかった。 芳子の手が頬に触れる寸前、その手首を逆手に取る。 「ぎゃっ……!?」 骨が軋む。 手首をほんの少し捻ると、嫌な音がした。 芳子は膝から崩れ落ちた。 「な、何を……! 離しなさいよ! 私は花奈様の……!」 「花奈様が、何だ?」 結菜は身をかがめて、芳子を見下ろした。 「主人の足元で吠えるだけの、老いぼれた駄犬が」 芳子の顔から、血の気が引いた。 結菜は手を離した。 芳子はボロ雑巾のように床へ転がり、折れた手首を抱えて震えている。 洗面台へ歩み寄り、蛇口をひねる。 芳子に触れた指先を、丁寧に洗い流した。 「三分以内にここを片付けて、新しい寝具を用意しなさい」 水を止めて、結菜は言った。声を荒らげる必要はなかった。 「は、はい……! ただちに、ただちに片付けます、若奥様……!」 這うように立ち上がり、片手でモップを動かす芳子の背中を見ながら、結菜は思う。 この館の秩序は、今日から私が決める。 窓辺に立ち、雨上がりの冷たい空気を吸い込んだ。 甘ったるいホワイトティーの香水が、廊下の向こうから流れてきた。 猫のように軽い足音と一緒に。
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