メインコンテンツへスキップ

第2章 週刊誌の「完璧な夫」と仮面の密約

翌日の午後九時五十分、希子は山路から指定された銀座の会員制バー「アマランス」の地下VIPルームの前に立っていた。

握りしめた手のひらには、じっとりと冷たい汗が滲んでいる。

彼女は深呼吸をひとつすると、山路に教えられた通りの手順で扉を三回ノックし、二秒置いてからさらに二回叩いた。

「入れ」

厚い扉の向こうから、低く落ち着いた男の声が響いた。

希子はドアノブを回して中へ足を踏み入れた。

室内には壁際のブラケットライトがひとつ灯っているだけで、ひどく薄暗い。入り口に背を向ける形で革張りのソファに腰掛けた男が、長い指先で銀色のジッポーライターを弄んでいた。

男がゆっくりと首を巡らせる。

その顔には冷たい銀色のフルフェイスマスクが着けられており、鋭く引き締まった顎のラインと、底の知れない暗い瞳だけが覗いていた。

希子は向かいのソファに腰を下ろし、持参した銀のハーフマスクで目元を隠すと、背筋を伸ばして切り出した。

「中川希子と申します。赤井様ですね。時間がありませんので、単刀直入に本題に入らせていただきます」

男は肯定も否定もせず、足を組んでゆったりと背もたれに身を預けた。

「自分が今夜、何の取引をしに来たのか分かっているのか?」

「ええ、もちろんです」

希子はバッグから取り出した『契約結婚合意書』のプリントを、テーブルの中央へ滑らせた。

期間は一年間。互いの私生活への不干渉、別居を前提とすること、公の場での協力義務、および完全な別産制が箇条書きで明記されている。

男は視線を落として書類に目を通すと、「私生活への不干渉」という文字の上を人差し指でトントンと叩き、喉の奥でくつくつと低く笑った。

「私は区役所の窓口で、婚姻届に判を押してくれる夫が必要です。そしてあなたに必要なのは、ご親族からの見合い圧力を黙らせるための妻のはずです」

希子が淡々と付け加えると、男は仮面の奥の瞳をわずかに細めて顔を上げた。

「俺が必要としているのが、それだけだと言い切れるのか?」

試すような低い声に、希子は視線を逸らさず真っ直ぐに向き合った。

「もし週刊誌の噂が事実であれば、名ばかりの妻を置くことが、あなたにとって最もコストの低い解決策になるはずです」

室内に張り詰めた沈黙が落ちた。暗がりの中で、男がライターの蓋を開閉するカチンという金属音だけが鮮明に響く。

次の瞬間、男がふいに上体を前に傾けた。仕立ての良い黒いスーツから漂うシダーウッドの冷たい香りが、圧倒的な威圧感とともに希子の頬をかすめた。

「中川希子。お前は俺が想像していた以上に冷徹な女だな」

「崖っぷちに立たされた人間にとって、冷静さだけが唯一の武器ですから」

希子が一歩も引かずに答えると、男は胸を揺らして低く笑った。

彼はスーツの内ポケットから金縁の真っ白なカードを取り出し、万年筆で電話番号だけをさらりと書き記して、テーブルのこちら側へ押し出した。

希子はわずかに眉をひそめた。

「ずいぶん簡潔な名刺ですね」

「呼び名などどうでもいい。重要なのは、明日の朝、お前が区役所で婚姻届受理証明書を手にできるかどうかだ」

希子はカードをバッグにしまいながら、頭の中で素早くリスクを計算した。家の体裁を取り繕うために偽装結婚を急ぐ放蕩息子のほうが、父のホテルを丸呑みしようと狙う親族よりもはるかに安全で扱いやすい。

「では、契約書にある三つの絶対条件を確認させてください。一つ、私の財産および個人の自由に一切干渉しないこと。二つ、この結婚の詳細を外部に漏らさないこと。三つ、一年後に無条件で離婚届に判を押すことです」

男はライターの縁を親指の腹でゆっくりと撫でながら、すべてに頷いた。ただ、最後の条件のところでだけ、わずかに唇の端を持ち上げた。

「もし一年後、お前のほうが離婚したくないと言い出したらどうする?」

「その時は、質の悪い冗談として聞き流していただいて結構です」

希子が冷ややかに切り捨てると、男はそれ以上追及せず、ライターを手のひらに収めた。代わりにポケットから黒水牛の印鑑を取り出し、テーブルの上に置いた。

「明日の午前九時、千代田区役所のロビーだ。実印と戸籍謄本を忘れるな」

男の指が署名欄を覆っていたため、希子は契約書に記された名前を見ることができなかった。

彼女は立ち上がって扉の前まで歩き、ノブに手をかけたところで、一度だけ振り返った。

「明日の朝、私を失望させないことを願っています」

「させないさ」

背後から届いた男の声には、隠しきれない愉悦の色が滲んでいた。

希子はバーの重い扉を押し開け、夜の銀座の路地へと出た。湿り気を帯びた夜風が頬を打ち、古傷の疼く下腹部を片手でそっと押さえながら深く息を吸い込んだ。そのまま通りでタクシーを拾い、自宅アパートの住所を告げると、頭の中で明朝持参すべき書類のリストを反芻し始めた。

同じ頃、地下のVIPルームでは、一人残された男が顔から銀色の仮面を外していた。露わになったのは、深い彫りと鷹のように鋭い眼光を持つ、攻撃的なまでに整った美貌――日本最大の複合企業・松林グループの若き総帥、松林慎十郎その人だった。

慎十郎はテーブルに残された合意書を手に取り、希子が署名した文字の上を親指の腹でゆっくりと撫でた。その瞳の奥には、十年間押し殺してきた暗い炎が揺らめいている。

扉がノックされ、専属運転手兼特別補佐の金野博夫が静かに入室して頭を下げた。

「慎十郎様、予定通り彼女は来ました。ご指示通り、赤井翔に関するあのゴシップ記事は、私どもが週刊誌に流した囮です」

慎十郎はシガレットケースから煙草を一本抜き出し、ジッポーで火を点けた。紫煙の向こうで、その唇が確信に満ちた弧を描く。

「十年待ったんだ、希子。今度こそお前を、俺の手から逃がしはしない」

彼は煙を吐き出しながらスマートフォンを取り出し、短い指示を飛ばした。

「赤井翔に伝えておけ。明日は間違っても区役所に近づくなと。それと――鈴木家がロイヤルクレストホテルの資金を流用していた証拠データをまとめ、明日の朝までに俺の『奥様』の手元に届けろ」