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第3章 仮面が外された瞬間

翌朝、午前八時五十分。希子は千代田区役所の戸籍住民課窓口の前にある長椅子で、昨日の男と並んで腰掛けていた。

男は黒いカシミヤのロングコートに身を包み、まだ銀色の仮面と革手袋を着けたままだった。周囲を行き交う職員や来庁者が、不審そうに何度もこちらを振り返っていく。

希子は声を潜め、隣の男に囁いた。

「あの、そろそろ仮面を外していただけませんか? 窓口で本人確認がありますから」

「呼ばれてからでいい」

男は膝の上に広げた婚姻届に、迷いのない筆致で自分の欄を記入していた。希子が横から氏名欄を覗き込もうとすると、彼の長い指が絶妙な角度で用紙の大半を覆い隠し、住所や本籍といったどうでもいい情報しか見えなかった。

希子は小さく息をつき、自分の記入欄に目を落とした。昨日の合意書を思い浮かべながら自分の欄を埋め終えた直後、窓口の電光掲示板に二人の番号が表示された。

立ち上がった瞬間、希子の心臓が不規則に跳ねた。

窓口の女性職員が書類を受け取り、事務的な笑顔を向ける。

「お二人のご本人確認をさせていただきますので、身分証明書のご提示をお願いいたします」

希子は運転免許証と戸籍謄本を差し出し、職員がパソコンのキーボードを叩く手元をじっと見つめた。隣で男がコートの内ポケットからプラスチックのカードを取り出し、トレイの上に置いた。

職員がカードと男の顔を交互に見比べ、少し困ったように眉を下げた。

「恐れ入りますが、松林様。お顔のわかるよう、そちらの仮面を外していただけますでしょうか」

「……松林?」

希子は弾かれたように首を巡らせた。自分の声に、焦りの亀裂が混じったのが分かった。

男は希子を見ようともせず、革手袋を外した長い指を仮面の縁にかけた。そして焦らすような緩慢な動作で、銀色の仮面を顔から外した。

蛍光灯の白い光の下に現れたのは、彫りの深い眉骨と無造作に流された黒髪、そして見る者を射抜くような鋭い瞳を持つ、圧倒的な美貌だった。

希子は息をのみ、耳の奥でキーンと高い耳鳴りが響いた。全身の血が一気に足元へ引いていく感覚に襲われる。

経済誌の表紙、朝のニュース番組、帝国ホテルのロビーに掲げられた巨大な広告――この顔を、彼女は何度も目にしていた。

松林慎十郎。日本最大の複合企業である松林グループを率いる若き総帥であり、原野グループが最も恐れている、財界の絶対的な捕食者だ。

自分は扱いやすい放蕩息子を釣り上げたはずだった。しかし、実際に目の前に立っていたのは、日本の政財界の頂点に君臨する怪物だったのだ。

「あなた……赤井翔じゃない」

希子はトートバッグの持ち手を強く握りしめた。指の関節が白く浮き出る。

「自分が赤井だなどと、一言も言った覚えはないが」

慎十郎は外した仮面をコートのポケットに滑り込ませ、まるで明日の天気でも話すかのように平然と言い放った。

「赤井家の窓口は俺の人間が代わりに押さえた。お前には今日、判を押す夫が必要で、俺にもちょうど、似たような噂を黙らせるための妻が必要だった。それだけのことだ。」

希子は激しく波打つ胸元を押さえ、必死に頭を巡らせた。

「どうして私なのですか?」

「お前が俺にまとわりつかない女だからだ。そして今、お前が絶体絶命の窮地に立たされていて――誰よりも感情を挟まない結婚を必要としているからだ」

慎十郎の低い声が落ちた瞬間、彼の瞳の奥にひどく深い感情の色がよぎったが、希子にそれを読み取る余裕はなかった。

頭の中で、冷徹にそろばんが弾かれる。合意書の相手が赤井翔だという前提は、根底から覆っている。

ここで逃げ出したらどうなる? 残された猶予はあと二日。新しい相手など見つかるはずもなく、ホテルの議決権株式五十一パーセントは実母の亜矢に渡り、世田谷の旧邸は重機で踏み潰される。

そういえば、松林慎十郎にも、親友の富沢仁翔と親密な関係にあるという根強い噂がある。後継者問題や見合いの圧力をかわすための隠れ蓑が必要だという点では、赤井翔と条件は同じだ。

希子は顔を上げ、慎十郎の暗い瞳をまっすぐに見据えた。

「昨夜の合意書に、ひとつだけ条項を追加していただきます。この一年間、あなたが持つ権力を使って私の財産や個人の自由を侵害しないこと。約束できますか?」

「いいだろう」

慎十郎は一秒の迷いもなく即答した。

窓口の職員が書類の確認を終え、改めて二人に問いかける。

「お二人とも、ご自身の意思での婚姻届のご提出で間違いございませんね?」

希子は静かに息を吸い込むと、バッグから取り出した実印に朱肉をつけ、自分の氏名の横に強く押し当てた。

紙の上に残った鮮烈な赤い印影は、もう後戻りできない契約の血判のように見えた。職員が受理の手続きを進め、数分後、真新しい『婚姻届受理証明書』を差し出した。

「手続きが完了いたしました。ご結婚、誠におめでとうございます」

希子は震える指先でその証明書を受け取り、配偶者欄に印字された「松林慎十郎」という五文字を親指の腹でなぞった。すでに賽は投げられたのだ。ならば、この日本最強の盾を最後の一日まで徹底的に利用し尽くすしかない。

瞳に冷たい決意を宿し、慎十郎と並んで区役所の自動ドアを出た。階段の段差で希子がつまずきかけると、慎十郎がすかさず片腕を回して腰を支えた。その直後、バッグの中のスマートフォンが壊れたように激しく震えだした。

画面を見ると、母の亜矢から十七件ものボイスメッセージが届いている。希子が最初の一件をタップすると、鼓膜を突き刺すような金切り声がスピーカーから溢れ出した。

『中川希子! お前、大和田様の前から逃げ出すつもりなの?! もし今日中に来なければ、お前の父親が遺したホテルなんて、この世から跡形もなく消してやるからね!』

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全10章

  1. 第1章第1章 年間の秘密と3日間のカウントダウン
  2. 第2章第2章 週刊誌の「完璧な夫」と仮面の密約
  3. 第3章第3章 仮面が外された瞬間

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