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第3章 屈辱の夜の記憶:この子は諦めなければ
暗闇の物置に戻った陽菜は、壁にもたれかかりながら、強く握りしめた検査薬の硬さを掌に感じていた。 鋭い角が皮膚に食い込み、その痛みが容赦なく現実を突きつけてきた。 まだ目に見える膨らみすらない下腹部に触れると、そこだけが周囲の冷気から隔絶されたように、かすかに温かかった。 (どうして……よりによってこんな時に……) 陽菜は目を閉じ、激しい後悔と恐怖に苛まれながら、あの夜の記憶を手繰り寄せていた。 二ヶ月前の初秋。都内の五つ星ホテルで開かれた、高坂玲奈の二十歳の誕生日を祝う華やかな夜会。 実の娘である陽菜も出席を強要されたが、それは家族としてではなく、洗練された玲奈の美しさを引き立てるための無様な「引き立て役」としてだった。 「お前も少しは人脈を作れよ。ほら、飲め」 玲奈の兄である和也と慎吾から、度数の高いカクテルを何杯も無理やり喉に流し込まれた。 悪意に満ちた嘲笑に囲まれるうち、視界が歪み、足元がおぼつかなくなった。 誰かに抱き起こされ、エレベーターに乗せられたところまでは覚えている。彼らは「最上階のスイートルームで休んでいろ」と言っていたはずだった。だが、案内された部屋の扉が開いた瞬間、漂ってきたのは冷たく澄みきった、シダーウッドの香りだった。 豪奢なキングサイズのベッドに投げ出され、熱に浮かされていた陽菜の前に、長身の男が影を落とした。 暗がりの中で唯一光を反射していたのは、知性を感じさせる繊細な金縁の眼鏡。 そして、夜の底のように深く、すべてを見透かす冷徹な瞳だった。 「……誰だ」 男の声は低く、氷のように研ぎ澄まされていた。 だが、アルコールによって理性を奪われていた陽菜は、助けを求めるようにそのスーツの襟元へ縋りついてしまったのだ。 「助けて……体が、熱いの……」 男の手は大きかった。 その手のひらに刻まれた微かなタコが、陽菜の火照った首筋を撫でた瞬間、全身に電気が走ったような戦慄を覚えた。 男は最初、汚らわしいものを見るかのように眉をひそめていた。しかし、陽菜の瞳からこぼれ落ちる涙に触れた刹那、その瞳の奥に昏い炎が灯ったのを覚えている。 「……後悔するなよ」 抗うことなどできなかった。 容赦のない力で組み敷かれ、シーツに爪を立てた。激しい痛みと、身体の芯から突き上げてくる未知の快楽に翻弄され、陽菜は幾度も気を失いそうになりながら、その男の広い背中にしがみついて夜を明かしたのだ。 翌朝、目が覚めたときには、すでに男の姿はなかった。 残されていたのは、純白のシーツに散った鮮血の痕と、全身を軋ませる酷い痛みだけ。 陽菜は屈辱に震えながら、誰にも気づかれないようホテルを抜け出した。 家族の誰かが仕組んだ罠だったのか、あるいは単なる部屋の間違いだったのかすら分からない。自分を汚した男の名前も素性も知らないまま、その秘密を心の奥底に埋めていたはずだった。 なのに、その秘密は、腹の中で確かに芽吹いてしまっていた。 (産めるわけがない……) 陽菜の胸を、鋭い自責の刃が貫いた。 自分自身、実の親に捨てられ、育ての親には家畜のように扱われ、今また三百万円で売り飛ばされようとしていたのだ。 後ろ盾も金も帰る場所もない、無力な十八歳の少女が、どうやってこの小さな命を守り育てていけるというのか。 このままこの子を産めば、自分と同じ、あるいはそれ以上に過酷な地獄を味わわせることになる。 (諦めなきゃ……どこかの病院で手術をしてもらわなきゃいけない) そう決断した瞬間、心臓を素手で握り潰されたような激痛が胸を襲った。 産んであげられない。母親にすらなれない。 その申し訳なさに、涙が次から次へとあふれ落ち、畳の上に染みを作っていった。 だが、手術を受けるにしても、生きてこの家を脱出することが先決だった。明日の朝になれば、あの土建屋の男がトラックで乗りつけてくる。 逃げるには資金が必要だった。 電車に乗る金も、東京までの運賃すら、今の陽菜にはない。 陽菜はふと、東京を出る朝のことを思い出した。 高坂家で荷造りをしていた際、あのパーティーの夜に着ていたドレスの裏地から、ぽろりと滑り落ちてきた一枚のカードがあった。 慌ててコートの内ポケットに突っ込んだきり、すっかり失念していたのだ。 陽菜は泥で汚れたコートを探り、その奥底から指先で硬質なカードをつまみ出した。 薄暗い月明かりに透かしてみる。 それは、一般的なクレジットカードとは明らかに異質なものだった。 表面にはカード会社のロゴも、十六桁の番号の刻印もない。 漆黒のマット加工が施された重厚な金属製のカード。その右隅に、精緻を極めた銀色のエングレービングで、複雑な「蔦の家紋」が刻まれているだけだった。 あのホテルの部屋のサイドテーブルに置かれていたものを、無我夢中で服を着る際に誤って巻き込んでしまったのだろうか。それとも、あの男が意図して残したものなのか。 何のカードなのかは分からない。銀行のキャッシュカードにも見えないし、電子マネーの類いにも見えない。 だが、指先でその冷たい金属の質感をなぞった瞬間、陽菜の脳裏にあの男の低く響く声が蘇った。 ――生き延びろ。 そんな言葉を言われたわけではない。けれど、その漆黒のカードは、絶望の暗闇の中に垂らされた唯一の細い銀の糸のように見えた。 「神様……もしいるなら、どうか……」 陽菜はカードを胸元に強く押し当てた。 これが何の役に立つのかは分からない。ただのガラクタかもしれない。 それでも、この小さな可能性を握りしめ、逃亡のための準備を始めた。
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