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第2章 地獄への帰還:妊娠発覚と悪魔の取引
軋む木製の引き戸を開けた瞬間、陽菜を襲ったのは、饐えた酒とカビの混ざり合った濃厚な空気だった。 土間には脱ぎ捨てられた靴が散乱していた。薄暗い六畳間の畳の上には、空になったワンカップと競馬新聞が山のように積み上がっていた。 「……誰だぁ?」 居間の奥で寝転がっていた養父の佐々木剛が、赤ら顔を上げて濁った瞳を向けた。 テレビの前に座り、こたつで煎餅をかじっていた養母の恵子も不機嫌そうに振り返った。その隣では、二十代半ばになっても定職に就かず、スマートフォンでオンラインカジノに興じていた義兄の大輔が、気だるげに視線を向けた。 「陽菜……?」 恵子が目を見開き、手元の煎餅を放り出して立ち上がった。その顔に、剥き出しの欲望が浮かび上がった。 「あんた、陽菜じゃないかい! なんだい、急に! 高坂の旦那からまた金を預かってきたのかい?!」 恵子の脂ぎった手が、陽菜の肩を鷲掴みにした。 爪が食い込む痛みに、陽菜は思わず身を縮めた。 「……違うの」 陽菜はかすれた声で、なんとかそれだけを絞り出した。 「違うって何がだい! 金はどこにあるんだよ!」 剛がよろめきながら起き上がり、酒臭い息を吐き散らしながら陽菜の前に仁王立ちになった。 「まさか手ぶらで戻ってきたわけじゃねえだろうな? おい、トランクの中身を見せろ!」 剛が土間に置かれたトランクを蹴り倒した。留め金が壊れ、中から濡れそぼった数着の古着が散らばった。 紙幣の束など、どこにも見当たらなかった。 「……私、追い出されたの」 陽菜は震える唇を開いた。 「高坂家とは、もう縁を切られた。お金は……一円も持っていない」 部屋の中の空気が、一瞬にして凍りついた。 次の瞬間、恵子が手を振り抜くと、鋭い破裂音が狭い土間に響き渡った。 「――っ!」 強烈な平手打ちを食らった陽菜の身体は吹き飛び、壁の柱に後頭部を激しく打ちつけた。 口の中に鉄の味が広がり、唇の端から熱い血が垂れ落ちた。 「この役立たずが!」 恵子の顔は般若のように歪み、甲高い絶叫が狭い家を揺るがした。 「誰のおかげで今まで飯が食えたと思ってんだ! 高坂という金づるができたから大目に見てやってたのに、追い出されただと?! ふざけるんじゃないよ!」 「クソが!」 剛が怒り狂い、散らばった陽菜の荷物を手当たり次第に踏みにじった。 「俺の借金はどうすんだよ! 来週までに三百万円用意しねえと、街のヤクザに指を詰められるんだぞ! おい大輔、どうにかしろ!」 柱の陰でスマホを弄っていた大輔が、嘲笑を浮かべながら立ち上がり、陽菜を見下ろした。 その品定めするような粘着質な視線が、陽菜の濡れたブラウスの上を這い回った。 「親父、母さん、そう怒るなって。高坂から金は取れなくても、陽菜ももう立派な女だぜ。東京に行って少しは垢抜けたし、顔だけはいいんだからさ」 大輔の言葉に、恵子がピクリと眉を跳ね上げた。 「……どういうことだい、大輔」 「隣町の山奥にいる、あの五十過ぎの土建屋の親父だよ。嫁が逃げてからずっと女を探してるだろ。若い生娘なら、喜んで三百万くらい一括で出すって言ってたぜ」 「三百万……!」 剛の目がギラリと光った。 「そうか! あいつにこいつを売り飛ばせば、借金はチャラだ!」 「嫌……っ! やめて!」 陽菜は恐怖に顔を歪め、床を這って逃げようとした。 だが、恵子がその長い髪を乱暴に掴み上げ、無理やり引きずり起こした。頭皮が引きちぎれるような痛みに、涙が溢れ出した。 「嫌も何もあるかい! 十六年間育ててやった恩を返す時が来たんだよ!」 「離して! お願い、お母さん!」 「黙りなさい!」 恵子は陽菜を土間の奥にある、農具や古い漬物樽が置かれた納屋のような薄暗い物置部屋へと放り込んだ。 湿った板張りの床に激しく叩きつけられ、陽菜は息をのんだ。 バタンと重い引き戸が閉ざされ、外から南京錠が掛けられる金属音が響いた。 「逃げようなんて思うんじゃないよ! 明日、相手に連絡して引き取りに来てもらうからね!」 外から剛と大輔の下品な笑い声と、祝杯をあげるために缶ビールを開ける音が聞こえてきた。 陽菜は埃まみれの床の上で膝を抱えて丸くなった。 寒さと痛みが容赦なく体力を削っていった。 だが、それ以上に陽菜を襲っていたのは、急激な恐怖だった。 胃の奥から、強烈な吐き気がせり上がってきたのだ。 「……うっ……げほっ……」 口元を押さえ、陽菜は胃液を吐き出した。 この吐き気は、今に始まったことではなかった。ここ数週間、朝起きるたびに酷い悪心に襲われていたのだ。東京にいた頃は、高坂家での過剰なストレスによる自律神経の乱れだと思い込もうとしていた。 だが、生理が最後にあったのは――いつだったか。 記憶を辿った瞬間、陽菜の全身の血が凍りついた。 二ヶ月前。高坂家が主催した、あのホテルでの忌まわしい夜会の夜から一度も来ていなかった。 (まさか。そんなはずはない……) 頭の中で激しい警鐘が鳴り響いた。 陽菜は震える指先で、自分の薄手のコートの内ポケットを探った。東京を出る前、ドラッグストアで人目を盗んで購入し、どうしても使う勇気が出ずに隠し持っていた細長い紙箱を取り出した。 妊娠検査薬。 深夜、家の中が静まり返るのを待った。 剛の地鳴りのような鼾と恵子の寝息が聞こえ始めた午前二時。 陽菜は物置の壁に刺さっていた古びて錆びた針金を手に取り、震える手で鍵の隙間に差し込んだ。幼い頃、幾度となくこの物置に閉じ込められ、そのたびに生き延びるために覚えた技術だった。 カチリと小さな音がして、錠前が外れた。 陽菜は息を殺し、忍び足で土間を抜け、奥の汲み取り式トイレへと滑り込んだ。 スマートフォンの薄暗い画面の明かりだけを頼りに、説明書通りに検査を行った。 判定窓を見つめる陽菜の心臓は、耳元で鐘を打ち鳴らすかのように激しく鼓動していた。 一分が永遠のように感じられた。 白い試験紙の上に、赤紫色の液体がじわりと染み込んでいった。 そして――。 そこには、誰の目にも疑いようのない、くっきりと濃い「二本の線」が浮かび上がっていた。 「……嘘……」 陽菜はその場に崩れ落ちた。 本当に、宿ってしまったのだ。 あの名前も知らない、暗闇の中で激しく身体を重ねた男の子どもが、今、自分のお腹の中にいる。 明日には三百万円で、人買い同然の老人の元へ売り飛ばされる身だというのに。 絶望が冷たい泥水のように、陽菜の胸を満たしていった。 だが、平坦な自分の腹部にそっと手を当てた瞬間、微かな、けれど抗いようのない熱が指先を通して伝わってきた。 (この子を……あんな連中に渡すわけにはいかない) 瞳から涙が溢れ出たが、唇を噛む力は強くなった。 ここにいては殺される。自分だけでなく、宿ったばかりのこの命まで奪われてしまう。 逃げなければならない。 この地獄から、何としても。
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