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病院の廊下は、消毒液の匂いと静寂に満たされていた。鷹司暁は、手術室の赤いランプを睨みつけながら、冷たい壁に背を預けていた。彼の白いシャツには、美咲の血が暗赤色の染みとなってこびりついている。 静かな足音が近づいてきた。鷹司家の女当主、祖母の巴だ。数人の屈強なボディガードを従え、その背筋は年齢を感じさせないほど真っ直ぐに伸びている。 巴の鋭い視線が、孫の狼狽した姿を捉えた。彼女は何も言わず、暁の隣に立つ。その手には、いつも通り黒塗りの扇子が握られていた。 「暁。説明なさい」 静かだが、有無を言わせぬ声だった。 暁はゆっくりと顔を上げた。その目は充血し、憔悴しきっている。 「あの女が……莉歌代が、美咲を突き落としました」 憎悪を煮詰めたような声で、彼は玄関で目撃した「事実」を語った。 巴は黙って聞いていた。そして、全てを聞き終えると、手に持った扇子で軽く掌を打った。 「莉歌代は、そんなことをする子ではありません」 淡々とした、しかし確信に満ちた声だった。その一言が、暁の感情の堰を切った。 「祖母様はまだあの女を信じるのですか!?」 彼は壁を殴りつけた。 「美咲のお腹にいたのは、慧兄さんの子供ですよ!俺たちが、鷹司家が、彼女に返しようもない恩義を負っている、慧兄さんの忘れ形見だったんだ!」 政治のために、氷室家の娘との望まぬ結婚を強いられたこと。愛する美咲が兄の婚約者となり、その彼女を守れなかったこと。全ての怒りと絶望が、彼の叫び声に込められていた。 その時、手術室の扉が静かに開いた。疲労困憊の表情を浮かべた医師が、ゆっくりと首を横に振る。 「お子さんは……助かりませんでした」 世界から、音が消えた。暁の体がぐらりと揺れる。支えを失ったように、彼はその場に崩れ落ちそうになった。 次の瞬間、彼は獣のように立ち上がり、巴の前に立ちはだかった。その目は狂気に近い光を宿している。 「離婚します。俺はあの女と、一秒たりとも同じ空気を吸いたくない!」 巴は、激情に駆られた孫を静かに見つめていた。長い、重い沈黙が流れる。この状況で、何を言っても無駄だろう。無理に莉歌代を庇えば、鷹司家の醜聞はさらに燃え広がるだけだ。 やがて、彼女は重い口を開いた。 「離婚は認めません。鷹司家の名誉に関わります」 「なっ……!」 暁が絶句する。 「ただし……」巴は続けた。「莉歌代には、しばらく日本を離れてもらいます」 彼女は背後に控えていた秘書に、冷徹な声で命じた。 「莉歌代さんを海外へ。行き先はニューヨーク。ほとぼりが冷めるまで、一切の連絡を断ちなさい。これは決定です」 それは、莉歌代を守るための苦渋の策であると同時に、紛れもない放逐の宣告だった。 暁は呆然と立ち尽くしていた。離婚ではない。だが、あの女が目の前から消える。それで十分だった。張り詰めていた肩の力が、僅かに抜けた。 巴はそんな孫の姿を深々と一瞥すると、何も言わずに踵を返し、廊下の闇へと消えていった。 その頃、莉歌代は屋敷の自室で、使用人たちのひそひそ話から「お子様が亡くなった」という事実を知った。全身から血の気が引いていく。これで、自分は完全に殺人犯として断罪されたのだと悟った。 部屋の扉が開き、巴の秘書が能面のような顔で入ってくる。 「奥様。ニューヨークへ行っていただきます」 尋問も、弁明の機会もなかった。ただ、一方的に下される、氷のように冷たい裁決。 莉歌代は暁に会わせてほしいと懇願したが、秘書は「最終決定です」と繰り返すだけだった。 部屋の扉は外から施錠され、電話線も抜かれた。彼女は、鷹司家という名の巨大な牢獄に、完全に囚われたのだった。

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章一覧

全70章

  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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