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夏目詩織の視点

翌日、朝の光が掃き出し窓から部屋に差し込んだ。

肋骨が折れた鈍い痛みに耐えながら、厚手のコンシーラーで青白い顔色を隠し、きびきびとしたビジネススーツに着替える。

桐山樹は、荊棘狼の群れのアルファにして、桐山グループのCEOだ。そして私は、その専属秘書。

周囲の目には、私は樹の最も有能な右腕であり、常に冷静で効率的な職場のエリートとして映っているだろう。

だが、誰も知らない。私が彼の公にできない番であることを。

樹が、私の中に狼がいないという事実をずっと気にしていることを、私は知っていた。だからこそ、彼は私たちの関係を公にすることを望まなかった。私はただ黙って彼に尽くし、いつか彼が心変わりする日を待ち続けていた。

しかし、今となっては、もうその必要はない。

会社ビルに入ると、私はまっすぐ秘書室長のオフィスへ向かい、辞表を彼女の机の上に置いた。

「辞職?」 秘書室長は眼鏡を押し上げ、驚きに満ちた顔で言った。「詩織、あなたは樹が最も信頼している人物よ。桐山グループはあなたなしでは回らない。 この件……樹は知っているの?」

「彼は気にしません」私は平静に口を開き、口元にビジネスライクな笑みを浮かべた。「引き継ぎは数日のうちに完了させます。会社に損害を与えるようなことはしませんので」

秘書室長は何かを言いかけたが、結局はため息をつき、署名した。

オフィスを出ると、私は深く息を吸い込んだ。胸の痛みは、あの交通事故が表面に見えるよりもはるかに深い傷を残したことを思い出させた。

自分の席に戻ろうとしたその時、給湯室から数人の社員のひそひそ話が聞こえてきた。

「聞いた?あの本命が戻ってきたって」

「藤森藍さんのこと? どうりで昨日、アルファがオークションであんなに大金を叩いて、10億で『月光石の涙』を落札したわけだ」

「信じられない。あれは番の永遠の忠誠を象徴するネックレスよ!桐山社長は本当に彼女を骨の髄まで甘やかしているのね」

私の足が、ぴたりと止まった。

「月光石の涙」。

私たちが番の契約を結んだ日、私は雑誌でそれを見たことがあった。

それは全体が透き通り、月光の下で幽かな青い光を放つ。狼人の番に対する月の女神の最も真摯な祝福だと伝えられていた。

私は顔を赤らめ、写真のネックレスを指差して、樹に小声で尋ねた。「このネックレス、素敵ね」

その時、彼はちらりと一瞥しただけで、気のない口調で言った。「あれは正式にルナ儀式を執り行った番が着けるものだ。 お前は狼にすらなれない。あれを着ければ、群れのメンバーが反発するだけだ。 分別をわきまえろ。余計な面倒をかけるな」

そう、ネックレスが規則に反していたのではなく、私がそれに値しなかったのだ。

「夏名さん、この書類、アルファのサインが急ぎで必要なんです。届けてもらえませんか?」 一人の若い秘書が駆け寄ってきて、私の思考を遮った。

私は書類を受け取った。指先がわずかに震えている。

社長室のドアを開けた瞬間、私は一生忘れられない光景を目にした。

樹が大きなオフィスチェアに座り、藤森藍が彼のデスクの端に腰掛けていた。

彼女は純白のシルクのロングドレスをまとい、その姿は一層か弱く、可憐に見えた。

樹の、いつもは冷酷な瞳が、今は優しさに満ちている。彼は藍が親しげに彼の首に腕を回し、頬に軽いキスを落とすのを、されるがままに受け入れていた。

「パタッ」

私の手からフォルダが床に落ち、散らばった紙片は、まるで私の砕け散った心のようだった。

二人は同時に私の方を振り返った。

樹の眼差しは、瞬時にいつもの冷たさを取り戻し、邪魔されたことへの不快感さえ滲ませていた。

「ノックもできないのか?」彼は冷たく叱責した。

しかし、藍は驚いた子鹿のようにデスクから飛び降りると、わざとらしく大げさに歩み寄ってきて私の手を取った。「詩織、誤解しないで。私、あまりに嬉しくて…… 樹が、彼がとても高価なプレゼントをくれたの」

彼女は私の手を引くと、わざとらしく首元のネックレスを見せつけた。

巨大な月光石が光を反射し、目に突き刺さるような輝きを放つ。それは、私の頬に容赦なくビンタを食らわせたかのようだった。

「綺麗でしょう?」藍は甘く微笑んだが、その瞳には私にしか分からない挑発の色が宿っていた。「樹が言ったの。この『永遠の忠誠』にふさわしいのは、私だけだって」

胸の奥に、細かな痛みが広がった。まるで鈍いナイフで引き裂かれるように。

私は倒れそうになる体を必死に支え、完璧な笑みを浮かべた。「とても綺麗。あなたに似合っているわ」

私は身をかがめ、肋骨がずれる激痛に耐えながら、床に散らばった書類を一枚一枚拾い集め、樹のデスクの上に静かに置いた。

「アルファ、書類をご確認ください」

私のあまりに平静な態度に、樹の眼差しに一瞬、言いようのない不安の色がよぎった。

私が立ち去ろうとするのを見て、彼は珍しく言い訳を口にした。「藍が戻ってきたばかりだから、祝いのつもりで適当にプレゼントを贈っただけだ。誤解するな」

「ええ」 私は頷き、何も言わずにオフィスを後にした。樹の反応を気にする気力は、もう残っていなかった。

退勤後、私は屋敷に戻り、荷造りを始めた。

ここには私たちの生活の痕跡が至る所に残っている。だが今となっては、どの家具も私の身勝手な思い込みを嘲笑っているかのようだ。

私は自分の服を一枚一枚丁寧に畳んでスーツケースに詰めた。彼が気まぐれに贈ってくれた高価な宝飾品は、一つも持っていかない。

私が持っていくのは、私自身のものだけだ。

スーツケースの蓋を閉めた、その瞬間。背後から慌ただしい足音が聞こえた。

続いて、樹の怒りに満ちた声が響き渡った。「詩織、一体何をしているんだ !?」

続きを読みますか?

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全321章

  1. 第1章チャプター 1 彼に気づかれずに番解除契約書にサインさせる
  2. 第2章チャプター 2 永遠の忠誠
  3. 第3章チャプター 3 ちゃんと優しくしてやる

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