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「……あなたは、だれ?」 聖恵の問いかけを聞いた鷹司慧は、唇の片端を吊り上げて、嘲るような笑みを浮かべた。 「田中、見ろ。今度は記憶喪失か。新しい芝居のつもりらしい」 その言葉の棘が、聖恵の胸に突き刺さる。 彼女は本能的に身を縮めようとした。だが、その動きが全身の傷に響き、鋭い痛みに息を呑んだ。顔が苦痛に歪む。 「鷹司様」 井上師長が、厳しい声で慧の前に進み出た。 「患者様は頭部に深刻なダメージを負っておられます。記憶の混乱は当然起こりうることです。どうか、お言葉にはご注意ください」 慧は看護師長のことなどまるで存在しないかのように無視した。 彼はゆっくりとベッドに近づき、病床の聖恵を見下ろす。その姿は、まるで罪人を断罪する王のようだった。 慧が手を伸ばす。 聖恵は無意識に肩を震わせた。 彼の指先は氷のように冷たかった。その指が、聖恵の肩にかかった薄いブランケットを、何の躊躇もなくめくり上げる。 肩には分厚いガーゼが当てられ、そこから僅かに血が滲んでいた。 慧の視線がそのガーゼに落ちる。しかし、そこに憐憫の色は一切なかった。むしろ、その冷酷さは一層深まったように見えた。 「俺の気を引くためなら、こんな苦肉の策まで弄するのか」 次の瞬間、彼はその冷たい指先で、ガーゼの縁を何の予告もなく強く押した。 「あっ……!」 絶叫が聖恵の喉から迸る。 激痛が電流のように全身を駆け巡り、目の前が真っ白になった。体が弓なりに反り、激しく震え始める。 「あなた、何を!」 井上師長が悲鳴に近い声を上げ、慧の腕を突き飛ばした。 「肋骨が折れて内出血も起こしているんですよ!」 慧は突き飛ばされて半歩よろめいた。聖恵の苦悶に満ちた表情を見て、その眉間に深い皺が刻まれる。そこには、苛立ちと、計算外だと言わんばかりの不機嫌さがあった。 先ほどの圧迫で、聖恵の傷口から新しい血が溢れ出し、白いガーゼを急速に赤く染めていく。 ビービービーッ! 再び、監視モニターがけたたましい警告音を鳴らし始めた。聖恵の生命を示す数値が、危険なレベルまで急降下していく。 井上師長が壁の緊急ボタンを叩きつけるように押す。 「山田先生!急いで!」 数秒後、山田医師と数人の看護師が病室になだれ込んできた。 「除細動器の準備を!」「血圧低下!」 病室は一瞬にして混乱の渦に巻き込まれた。医師たちが必死の救命措置を開始する。 慧は、その輪の外に押しやられていた。 彼は、人垣の向こうに見える鮮烈な赤色を、ただ眉をひそめて見つめていた。事態がここまで深刻だとは、予想していなかったようだった。 聖恵の意識は、再びあの冷たく暗い深淵へと沈んでいく。 次に聖恵が目を覚ましたのは、それから三日後のことだった。 場所は集中治療室から、窓のある明るい一般病棟に移されていた。 ベッドの傍らには、井上師長が心配そうに座っていた。 「峠は越えました。でも、記憶のほうは……もう少し時間が必要かもしれません」 聖恵は声にならない声で「ありがとう」と伝えた。この親切な看護師に対する感謝の気持ちが、胸に温かく広がった。 その日の午後、鷹司慧が再び現れた。今度は一人だった。 彼は聖恵のベッドサイドテーブルに置かれたコップが空なのに気づいた。無言でウォーターサーバーから水を汲み、聖恵に差し出す。その動作はひどくぎこちなく、まるで義務をこなしているかのようだった。 聖恵はまだ高熱と痛みが続いていた。弱々しく手を伸ばし、コップを受け取ろうとした。 だが、指先が震え、力が入らない。 パリンッ! ガラスのコップが手から滑り落ち、床に叩きつけられて粉々に砕け散った。 静かな病室に、その破壊音はあまりにも大きく響き渡った。 慧は飛び散る水滴を避けるように、素早く一歩後ずさる。その顔には、あからさまな嫌悪感が浮かんでいた。 彼は聖恵が何か言うのを待たずに、冷たい声で断罪した。 「騒ぐのはやめろ。物を壊すのか?それがお前の謝罪のやり方か。陽葵のほうが、よほど聞き分けがいい」 聖恵は床に散らばったガラスの破片を見た。 そして、慧の顔を見た。 彼の顔には「ほら、やっぱりな」という確信が浮かんでいる。

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章一覧

全30章

  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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