メインコンテンツへスキップ

チャプター 2 第二章

月川栀は電話を切ったあと、すぐにその場を離れようとはしなかった。

東京の街中に立ち、スマホの画面に残った番号を眺め、指先を画面の上に置いたまま、なかなか次の操作に進めなかった。

その番号は——早稲田大学 先端生命医科学専攻——だった。 この文字を、彼女は眠れない夜の資料の中で何度も目にしてきた。 だが当時の彼女には、いつか自分が学生としてこの場所に立つ日が来るなんて、夢にも思っていなかった。

手元のスーツケースをちらりと見てから、彼女は駅の方へと歩き出した。 まずやるべきことは荷物を預けることだ。 過去と共に抱えてきた品物を、身辺に置いておきたくなかった。

荷物を預け終えると、カバンから一枚の資料を取り出した。 用紙の一番上には自身の本名はなく、ただ二文字だけが記されている——月見。

これはこの数年間、彼女がずっと使い続けてきた匿名のアカウント名だ。 このアカウントの裏にいるのは、長い結婚生活に閉じ込められた一人の女だった。

アカウントに投稿してきた薬剤の安定性、神経性鎮痛に関する研究資料は、すべて彼女が一つひとつ自分でまとめ上げたもの。 専用の実験室も、指導教官もいない環境の中、公開されている論文データやオンライン講義、限られた実験数値だけを頼りに、自身の仮説を検証し続けてきた。

彼女は一度も足を止めなかった。 いつか必ず、本来進むべき道に戻れる日が来ると信じていたから。

早稲田大学の新入生受付会場は、思っていた以上に賑やかだった。 入学手続きに訪れた学生たちがグループを作り、講義内容について話し合ったり連絡先を交換したりして、誰もが新大学生特有の期待感に満ちた表情を浮かべている。

月川栀は資料を手に人混みの中に佇み、あまりに静かで周囲の雰囲気に馴染めていなかった。 手元の書類を見下ろす。 年齢欄に記載された数字は、周りの新入生たちより数歳上だ。 人生の歩みも、他の学生のように単純なものではない。

受付スタッフが彼女の資料を受け取り、目を通した瞬間、明らかに動きが止まった。

「月川栀様ですか?」

「はい。」

「以前、研究サマリーを提出されましたよね?」

「そうです。」

スタッフがシステム画面を再確認し、数秒後、表情が引き締まった。

「少々お待ちください。」

間もなく、担当の教員が出てきた。

「あなたが……月見さんですか?」

月川栀は一瞬黙った。 自分の匿名名を他人の口から聞くのは、不思議と居心地の悪さを覚えた。 桐谷家で過ごした七年間、真剣に、対等に、慎重な口調で自分を呼んでもらった記憶がほとんどない。

彼女は小さく頷く。

「私です。」

事務の教員は再び資料に目を落とす。

「教授陣が、あなたのアルカロイド誘導体の安定性に関する研究ノートを閲覧していました。青山教授が大変注目していたため、本日午後に聴講申請の確認にいらっしゃるようご連絡した次第です。」

話しながら、対応の態度が先ほどより一段と丁重になった。 「ただ正式な入学手続きの書類を追加で整えていただく必要がありますし、研究室側にも本人確認が必要となります。」

月川栀は膝の上に置いていた手を、ゆっくりと緩めた。

「承知いたしました。」

少し間を置いて、彼女は続けた。 「これまで環境が限られていたため、多くの考察が理論的な推測と文献検証の段階で留まっていました。大学に入った今、足りない部分をすべて補いたいと考えています。」

相手は穏やかに彼女を見て、微笑んだ。

「青山教授も、あなたの資料を高く評価しています。 新入生歓迎会が終わった後、研究棟までいらっしゃるようにとのことです。」

月川栀の指先がそっと力を込める。

「分かりました。」

新入生説明会が始まると、月川栀は一番最後列の席に座った。 入学直後はやるべき手続きが多いので、学校のスケジュールだけ把握したら、早めに立ち去るつもりだった。

だが壇上に一人の男が上がった瞬間、ペンを握る彼女の手が止まった。

壇上の男は無地の白シャツを着て袖をまくり、洗練されて無駄のない雰囲気を漂わせている。 傍らから小声の囁きが聞こえてくる。

「柏原隼人だ。」 「青山教授のグループの方だよね?どうして新歓の挨拶に?」 「薬学医療クロスプロジェクトの中核メンバーに入ってるらしく、とんでもなく優秀なんだ。」

月川栀自身も、ここで彼に再会するとは思ってもみなかった。 高校時代、塾で顔を合わせたことがある。

当時の柏原隼人はいつも最後列の席に座り、問題をサクサク解き、無口な少年だった。 クラスの中で彼と学力を競える人間は少なく、月川栀はその一人だった。 二人は特別親しいわけではなく、ただ時折、同じ化学の論述問題を前にホワイトボードを挟んで意見をぶつけ合う程度だ。

その後月川栀が唐突に塾を辞め、結婚してしまってから、二人は一度も会っていない。

壇上の柏原隼人が話し始める。 「皆さん、こんにちは。柏原隼人と申します。医薬学クロス分野の大学院生です。」

周囲の学生たちがまた低い声で話し合う。 その名前が耳に届くたび、月川栀の指先がかすかに震え、視線が自然と壇上へ向く。

時が流れ、昔塾で隣から質問を投げかけてきた少年は、今や壇上で話す大学院生になっていた。

柏原隼人の視線が会場内をなぞる。 彼女が顔を上げたタイミングで、二人の目線がぴったりと重なった。

「多くの人は、研究に華やかな経歴が必要だと考えています。 ですが本当に重要なのは、目の前の課題に対して疑問を持ち続け、答えを探し出せるかどうかです。 医療研究は、一度の成功で決まるものでは決してないのです。」

この言葉を聞き、月川栀は手元の資料を見下ろした。 この数年間、自分はずっとこの言葉通りに行動してきた。

説明会が終わり、学生たちが次々と会場を後にする。 月川栀は荷物をまとめ、研究棟へ向かおうとした。 廊下の曲がり角まで進んだところで、背後から自分の名前を呼ぶ声が響いた。

「月川?」

足を止めて振り返ると、柏原隼人が数歩先に立ち、真っ直ぐ彼女を見つめていた。

「本当に君だったんだ。」

月川栀は黙って彼を見つめた。 七年前、彼女は何も告げず唐突に姿を消し、連絡先も残さなかった。 こうして再び顔を合わせた今、すべてが様変わりしてしまった過去を、どう説明すれば良いのだろう。

柏原は彼女の戸惑いを察したのか、穏やかに笑うだけで、この数年どこにいたのか、なぜこの大学にいるのか、気まずい同情の色を見せることもなく尋ねてこなかった。

ただ、こう言った。 「君が戻ってきてくれて、心底嬉しいよ。」

柏原隼人は手に持っていたファイルを閉じ、問いかける。 「午後、青山教授に会いに行く予定だったよね?」

月川栀は頷いた。

「俺が案内しよう。」柏原隼人は言う。「今日青山教授は研究棟にいるし、俺もちょうど用事がある。」

月川栀は思わず資料入れを強く握りしめた。 心の中は緊張でいっぱいだ。 七年の空白がある自分が、この場のスピードについていけるのか、不安で仕方がない。

だが柏原隼人は一歩前に進み、振り返って彼女を見た。

「月川栀。君は医薬の分野を深める素質がある。昔も、今も変わらない。」

月川栀はその場に立ったまま、指先を少しずつ強く握り、やがてゆっくりと力を抜いた。

続きを読みますか?

読み進めると物語が続きます。

続きを読む

章一覧

全51章

  1. 第1章チャプター 1 第一章
  2. 第2章チャプター 2 第二章
  3. 第3章チャプター 3 第三章

新着