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チャプター 3 第三章

研究棟は普通の講義棟とは雰囲気がまるで違っていた。 ガラス扉の内側はひっそりと静かで、空気には薄い消毒薬のにおいが漂っている。壁には実験エリアの配置図と安全規則が貼られ、行き交うスタッフは大半が白衣を身に着け、記録帳かサンプルケースを手に足早に移動していた。

月川栀が柏原の後を追って中に入ると、無意識にカバンの紐を肩の上で引き直した。 今日の身なりは極めて質素で、上着は朝アパートから持ち出したものだし、髪も適当に一つに縛っただけだ。周囲の学生は皆若々しく、入退室のセキュリティや手続き、機器の扱いにも慣れきっている。それに比べ、自分はまるで場違いな部外者のように感じられた。

柏原がセキュリティカードを読み取り機にかざして扉を開け、振り返って彼女を見た。 「緊張してる?」

月川栀は小さな声で答えた。 「少しだけ。」

柏原は彼女をからかうような真似はしなかった。 一時的な入構カードを手渡しながら説明する。 「緊張するのは当然だ。ここは見学施設じゃない。中に入ったら標識のない試薬には触れないで。サンプル棚や冷蔵エリアについては後ほど個別に案内する。」

月川栀はカードを受け取り、頷いた。 「大丈夫、俺がついてるから」といった甘い言葉はなく、それが却って彼女の肩の力を抜かせた。 誰かに盾になってもらう必要など、彼女にはないのだ。

柏原が先頭を進みながら、実験エリアを簡単に紹介していく。 「左側が一般サンプル前処理エリア、真正面の部屋が薬剤スクリーニング実験室だ。冷蔵庫や危険薬品庫はアクセス権限が設定されている。青山教授は今階上にいて、少ししたら降りてくるはず。」

月川栀は話を聞きながら、つい隣の実験台に視線が吸い寄せられた。 ドラフト内のシャーレの一組がきちんと封をされておらず、隣の記録用紙には温度の記載が抜けている。 流し台の近くにはピペットが原点リセットされないまま置かれていた。

どれも細かすぎて、普通の見学者ならまず気づかないような欠点だ。 月川栀は目に留めたものの、すぐに口には出さなかった。 入ったばかりで身分も確定していない今、不用意に口出しするのは賢明ではない。 ただ場所を脳裏に留めておくだけにした。

柏原が彼女の視線に気づき、同じ方向を眺めて問うた。 「何か気になる点でも?」

月川栀は視線を戻し、「何もありません」と答えた。

二人が薬剤スクリーニング実験室の入り口まで来たところ、室内から一人の女性が顔を上げた。 「柏原。」

白衣を着て髪をきっちり後ろで束ね、胸に名札をぶら下げた女性は高橋理奈だ。 彼女の周りには数名の学生が実験台を囲んでデータを記録しており、声に反応して一斉にこちらを見た。

高橋の視線はまず柏原に向き、すぐさま月川栀の顔へ移った。 悪意があるわけではないが、あまりに率直な眼差し。 この場に立つ資格がどこにあるのか、値踏みするような目だ。

「この方は?」高橋は記録用のペンを置き、「新しい入所者?」

「月川栀だ。青山教授が面会を希望しているので、研究棟の案内をしている。」柏原が説明した。

「研究棟の案内?」高橋は月川栀の胸にぶら下がった臨時入構カードを一瞥し、口調が冷めていく。「柏原、ここは薬剤スクリーニングの核心実験室だ。キャンパスの観光ルートじゃない。正式な権限のない人間が自由に出入りする場所ではない。」

柏原が言い返そうとしたが、高橋は既に月川栀の方を向いていた。 「今日が入学手続き初日?」

月川栀は頷く。「はい。」

「手続きしたその日に核心実験室に入ってくるなんて。」高橋は温度のない笑みを浮かべた。「青山教授の採用基準も随分緩くなったものね。」

周囲の学生たちは誰も相槌を打たないが、視線が微妙に変わった。

「柏原、教授に気に入られているからといって、誰でも勝手に連れ込んでいいわけじゃない。研究室は経歴を飾るための場所じゃないし、紹介の一言だけで枠を奪えるほど甘くない。」

柏原の表情が険しくなる。「高橋、彼女の研究資料は教授陣が既に目を通している。」

「資料なら誰だって書けるわ。」高橋が言葉を遮る。「実際に実験室に立ってみれば分かる。手先の安定性、手順の理解度、トラブル発生時の判断力。紙の上の文字だけでは証明できないことばかりよ。」

月川栀はずっと黙って聞いていた。 柏原が自分のために弁護しようとしているのは分かっていたが、これ以上彼に肩入れさせたくなかった。 二人の口論のきっかけになるのは嫌だった。

月川栀は手に持っていた聴講申込書をカバンにしまい、高橋を真っ直ぐに見上げた。 「証明が必要なら、実技で示します。」

実験室内が一瞬静まり返った。

「本気で?」 「はい。」月川栀は続ける。「ただサンプルの性質だけは事前に確認させてください。進行中の本格プロジェクトの検体でしたら、手を触れません。」

高橋の目つきが変わった。 準備していた嫌味の言葉が半分塞がってしまった。 単なる見物人なら、まずこんな確認をするはずがない。

彼女は脇の棚から一組の練習用サンプルを取り出し、実験台に並べた。

「薬剤溶出度の前処理作業だ。」高橋は記録用紙を突き出す。「サンプル番号管理、段階希釈、緩衝液の校正、ピペッティング、攪拌、測定前記録まで一連の作業。二十分で間に合う?」

隣の一人の学生が眉をひそめる。「高橋先輩、これは新入生には……」

高橋はその声を無視し、月川栀だけを見据える。 「ただ眺めに来ただけなら、今のうちに言ってもらって構わない。」

月川栀は並んだ透明な試験管の列を眺めた。 傍らには試薬、ピペット、緩衝液と古い作業手順書が置かれている。 すぐに手を動かさず、まず手袋を装着し、試薬のラベルを確認。 ロット番号、使用期限、pHの記載項目を順にチェックしていく。

柏原は傍らに立ち、彼女の手元を見守りながら、一言も挟まない。 高橋は腕を組んで観察し始めた。最初は余裕の表情だったが、月川栀がSOP手順書を数ページめくったところで、瞳の奥に細やかな変化が走った。

月川栀は手を止め、手順書と記録用紙に書かれた目標濃度を見比べた。

「この手順書に問題があります。」彼女は告げる。「緩衝液の設定濃度が、最終目標濃度と整合していません。」

高橋は即座に応じず、隣の学生が怪しんで近寄って用紙を覗き込む。 「どこが違うの?」

月川栀はペンで該当箇所を丸で囲む。 「この数値のまま後段の希釈を進めると、最終的なピーク面積が高めに出てしまいます。見栄えの良いデータにはなりますが、薬剤の安定性評価が歪んでしまうのです。」

その学生の顔色が変わり、高橋の表情も一瞬曇った。

「あなたの見間違いじゃないの?」

月川栀は言い争わず、新しい白紙の記録用紙を取り出し、希釈倍率を段階的に書き出していった。 初期濃度から目標濃度、緩衝液の配合比率まで、どの工程で数値が偏るのかを明確に記していく。

実験室内は次第に静まり、さっき傍観していた学生たちの視線が一斉にその用紙に集まる。 小声で「確かに古い手順書の不備みたいだ」と囁く声が漏れた。

高橋は唇をきつく結ぶ。 月川栀は彼女の表情を気にせず、誤った手順書を脇に寄せ、緩衝液を再校正してサンプル前処理を開始した。

七年も実際の実験台から遠ざかっていた。 この年月、彼女は机の上の理論推論、データベースの文献調査、アパートの台所の灯りの下で計算を重ねる日々だった。 毎日実験室で作業している学生たちほど手さばきが滑らかではないのは事実だ。

月川栀はそっと息を吐き、親指でピペットのスイッチを押す。吸引、移液、攪拌、遮光マーキング。 一工程一工程、無駄な動きなく潔くこなしていく。 速さで自分を証明しようともしない。

高橋は最初は粗を探そうとしていたが、作業が進むにつれ余裕が消えていく。 隣の学生がタイマーを見て、思わず呟く。「まだ時間に余裕がある。」

月川栀は反応せず、最後の一本の処理を終え、測定前記録を記入しようとした時、視線が止まった。 二段目の三番目の試験管、液の底に極細の沈殿物がわずかに溜まっている。 光を当てなければ、まず見逃してしまう程度の痕跡だ。

彼女はその試験管を手に取り、光源の下にかざす。 「このサンプルはそのまま測定装置にかけられません。」

高橋が眉を寄せる。「なぜ?」

「沈殿物が生じているからです。」

高橋が覗き込み、顔色が一気に悪くなった。 あの細かい沈殿は、彼女自身もさっき気づかなかった。

「温度変動による結晶析出の可能性が高いです。」月川栀は試験管ラックに戻しながら説明する。「あるいは溶媒の配合比率のズレ。そのまま測定すると溶出曲線が乱れ、正常な検体として扱うのは適切ではありません。」

高橋は黙り込む。 傍らの学生がつい質問する。「溶媒比率の不備まで、どうして判断できたの?」

月川栀は記録用紙を指し示す。 「先に緩衝液の濃度設定にミスがあったのです。同じ古い手順でサンプル調製を進めていたのなら、溶媒比率の狂いが生じても不思議ではありません。沈殿の形状も単なる汚染ではなく、析出に近い特徴を持っています。」

話し終えると、実験室の空気はさらに重く静かになった。 最初は部外者として冷ややかに眺めていた学生たちの目つきが、一変していた。

高橋は数秒黙った後、問いかけた。 「事前に私たちの手順書に目を通していたの?」

月川栀は顔を上げる。 「いいえ。」

「じゃあ、どうしてここまで見抜けるの?」

「記録、サンプルの状態、濃度の整合性を見ただけです。」月川栀の声は大きくない。「実験とは手順を丸暗記するものではない。手順書自体に誤りがある可能性も常に考慮しなければなりません。」

この一言で高橋の表情はさらに険しくなり、周囲の学生は誰も声を上げられなくなった。

膠着した空気を割くように、実験室の入り口から声が響いた。 「その通りだ。」

全員が一斉に振り返る。 白髪混じりの男性が白衣を着てフォルダを手に、扉際に立っていた。

高橋が真っ先に反応し、背筋を伸ばす。 「青山教授。」

月川栀も顔を上げた。 青山教授は室内に入ると、まず柏原にも、なぜ人が集まっているのかにも触れず、視線を月川栀の前の記録用紙、そして分けて置かれた異常サンプルに落とした。

「これを見つけたのは君か?」

月川栀は手袋を外し、頷く。「はい。」

「なぜ溶媒比率の不備を疑った?」青山教授の質問は率直だ。

月川栀はサンプルラックを少し前に押し出す。 「隣の試験管より液の色調が薄く、沈殿が底に集中して綿状に広がらない点から判断しました。先のSOP緩衝液濃度のミスと合わせ、同じ古い手順で調製されていた場合、溶媒比率の狂いが溶出度に影響を及ぼします。今後は調製記録の再確認と温度条件の比較実験を行い、結晶析出なのか配合の問題なのか切り分ける必要があります。」

青山教授は黙って彼女を見つめる。 月川栀は続けた。 「今すぐ測定にかけてもデータが完全に使えないわけではありませんが、異常要因を明記して分類しなければ、後の溶出曲線解析時に、数値の偏りを薬剤固有の安定性不良と誤認してしまいます。」

室内には機器の微かな稼働音だけが残る。 話し終えた月川栀は、自分の指先が小さく震えていることに気づいた。

青山教授が手元のフォルダを開き、柏原が傍らで補足する。 「教授、こちらが月川栀です。」

青山のページをめくる手が一瞬止まり、再び月川栀を見据える。 「月見か?」

この名が出た瞬間、周囲の学生たちの表情が一斉に驚きに染まり、高橋も勢いよく顔を上げた。

月川栀は一瞬沈黙した後、頷く。 「私です。」

青山教授は彼女の聴講申込書に目を落とし、関連研究資料の欄に視線を留める。 「アルカロイド誘導体の安定性に関する研究ノートは、君が執筆したのか?」

「はい。」

青山はしばらく彼女を眺め、やがて短く笑みを浮かべた。 その僅かな笑顔が、室内の張り詰めた空気を和らげる。

「初めて実験室に足を踏み入れた日に、SOPの誤記とサンプルの異常を両方指摘できる。これは単なる見学ではない。」

高橋の顔は青みがかる。 青山は彼女に向けて指示する。 「高橋、なぜ古い手順書が練習用サンプルの傍に残っていたのか、後日報告書を提出しなさい。」

高橋はうつむいて応じる。「承知いたしました、教授。」

青山は改めて月川栀を呼ぶ。 「月川栀。」

月川栀はすぐに背筋を正す。「はい。」

「君の聴講申請を、正式な試用採用に切り替える。」青山は異常サンプルの一組を彼女の前に戻す。「明日から実験室に来て、基礎的な記録業務から担当してもらう。このサンプルの再検証は君に任せる。」

青山は別の書類を手に取り、続けた。 「ただ、専門プロジェクトチームに配属する前に、一つ条件がある。」

月川栀が書類を受け取ると、一行の文字が目に入った。 「二ヶ月以内に、全専門科目の考査に合格すること。」

胸がひきつる。 青山教授は真剣な眼差しで告げる。

「月川栀。この研究室は実力のある人間を歓迎する。 だが、ここに近道など存在しない。」

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全51章

  1. 第1章チャプター 1 第一章
  2. 第2章チャプター 2 第二章
  3. 第3章チャプター 3 第三章

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