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第2章 離婚しましょう
深夜、玄関の方で物音がした。
シャワーを浴びたばかりの平野遥香は、まだ半乾きの髪のまま、玄関ホールへと向かった。 「おかえりなさい」
ドアの前に立っていたのは、谷口大輝だった。 シャツの袖を無造作に腕までまくり上げ、その目は冷たく澄み切っていた。
遥香は思わずバスローブの襟元をきつく握りしめた。 「あなたに話があるの……」
言い終わるか終わらないかのうちに、大輝は遥香の顎を鷲掴みにし、無理やり顔を上げさせた。
左の眉尻から頬骨にかけて走る痛々しい傷跡。 それはまるでムカデのように、彼女の顔に醜く刻まれていた。
「話だと?」
彼の声は、地を這うように低く、冷酷だった。 「平野遥香、いつから俺にそんな小賢しい真似をするようになった?」
「違う、私は……」
大輝は遥香の手首を乱暴に掴むと、力任せに引き寄せた。 遥香はよろめき、彼の硬い胸板に叩きつけられる。
もう片方の手が、彼女のバスローブの襟元を粗暴に引き裂いた。 ボタンが弾け飛ぶ。
遥香は反射的に彼を突き放そうとした。 「やめて」
「何を今更しらばっくれる?」 大輝の声には、隠す気もない侮蔑が滲んでいた。 その目は、まるで値踏みするような目だった。
「必死に俺を呼び戻したのは、このためだろう? 月に一度の"務め"が、お前が望んだことじゃないか」
遥香の全身が、凍りついた。
そうか。 彼の目には、夫婦の営みはただの義務でしかなかったのだ。
この三年間、ひたすら耐え忍んできた。
けれど、彼の心のかけら一つ、手に入れることはできなかった。 ならば、もう未練などない。
「谷口大輝、離婚しましょう」
大輝の動きが、ぴたりと止まった。 眉間に深い皺が刻まれる。 「もう一度言ってみろ」
今度は、遥香は一言一句、はっきりと告げた。 「離婚しましょう、私たち」
彼は苛立ちを隠しもせずにネクタイを緩め、冷え冷えとした声で言った。 「離婚? 平野遥香、また何の芝居だ?」
「本気よ。 あなたの『心の恋人』が帰ってきたから。 私は身を引くだけ」
大輝の顔が、みるみるうちに険しくなる。 彼は吐き捨てるように警告した。 「平野遥香、いい加減にしろ。 この家の外に出ることさえ怖がるお前が、離婚してどこへ行くつもりだ?」
その言葉は、彼女の最後のプライドを深く傷つけた。
そうだ。 世間の目には、自分は谷口大輝が飾り鳥籠に閉じ込めた醜い鳥でしかない。
友達もいない。 仕事もない。 収入もない。
分不相応な高望みをした女。
遥香は伏し目がちに、平坦な声で答えた。 「それは私の問題です。 あなたにご心配いただく必要はありません」
大輝は目を細めた。
三年間、この女はいつも自分の前で、従順で卑屈な態度を崩さなかった。
今日のような、冷静で、突き放すような姿は、一度も見たことがない。
「平野遥香、その駆け引きのつもりなら、やりすぎだぞ」
彼女はもう何も言わなかった。
その時、静寂を切り裂いて、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
発信者の名前を見た瞬間、大輝の表情が微かに変わる。 彼はすぐさま電話に出た。 「比奈、どうした?」
電話の向こうで相手が何かを話したのだろう。 さっきまでの冷酷さが嘘のように、彼の声は優しくなる。 「怖がらなくていい。 今すぐ行くから」
電話を切ると、 彼は振り返りもせず、大股で外へ向かっていく。
彼は知っていた。 平野遥香が自分から離れられるはずがないと。
この三年間、ずっとそうだったのだから。
バンッ!
ドアが乱暴に閉められる。
寝室に、遥香が一人取り残された。
彼女はベッドの端に腰掛け、長い時間、何もない空間を見つめていた。
携帯電話のバイブが震える。
知らない番号からのメッセージだった。
「彼はまた私に会いに来てくれたわ」
添付されていたのは、盗撮された大輝の横顔の写真。
その顔には温かい笑みが浮かび、目には遥香が一度も見たことのない優しさが浮かんでいた。
そう、彼にもこんな一面があったのだ。
立て続けに、次のメッセージが届いた。
「家の外に記者がいるみたいって言ったら、すぐに駆けつけてくれたの。 私のことを心配して」
「そういえば今日、彼がオークションで『エンジェル・ハート』を落札して、私にプレゼントしてくれたの。 あなたの分も何か買ってもらおうとしたんだけど、『彼女には必要ない』ですって。 それもそうよね、どんなに綺麗なジュエリーでも、あなたのその顔じゃ……無駄になるわね」
「平野遥香、あなたは彼が仕方なく選んだ代用品。 彼が愛しているのは、この私よ」
一つ一つ、一言一句が、彼らの裏切りの証拠だった。
三年間、いつも冷淡だった大輝が、他の女の前ではこんなにも優しく、思いやりに溢れていたなんて。
遥香は、ふっと乾いた笑いを漏らした。 そして、返信する。
「谷口大輝みたいな使い古しの男、欲しければくれてあげる。 お似合いのクズ同士なんだから、二人でしっかり縛り合って、二度と他の人を不幸にしないで」
送信完了後、遥香は即座にその番号をブロックした。
(大輝、これで、あなたとは完全に終わりよ)
翌日。
遥香はベッドサイドテーブルの上に、一枚の離婚届を置いた。
財産分与を一切求めず、身一つで家を出る。 終わらせるなら、綺麗さっぱり終わらせたい。
そして彼女は小さなスーツケースを一つだけ手に、谷口家を後にした。
三年間。
結局、大輝に愛されることはなかった。
もう、本当に去るべき時なのだ。
屋敷の門を出た途端、一台の限定仕様のストレッチ・リムジン、ロールス・ロイスが、彼女の目の前に滑るように停車した。
ドアが開き、すらりとした長い脚が降りてきた。
その人物の顔を見て、遥香の瞳が一瞬で赤く染まった。 「陽翔兄さん……私、離婚したの」
三年間、必死に耐え忍んできた結婚生活。 陽翔兄の顔を見た瞬間、堰を切ったように全ての哀れと悔しさが溢れ出した。
「遥香、自由の身だな。 おめでとう」 鈴木陽翔は妹を抱きしめ、痛ましげに言った。 「本当のお前に戻る時が来たんだ。 おかえり!」
平野遥香は、実は潮見市にその名を轟かせる鈴木家の末娘。 母の姓を名乗ってはいるが、億単位の資産を持つ正真正銘の令嬢だった。
離婚を決意した今、彼女は自分の家に帰るのだ。
彼女は手元の端末から谷口家の監視システムに直接アクセスし、自らが存在した全ての痕跡を抹消した。
これより先、谷口夫人であった平野遥香は存在しない。ただ、鈴木家のお嬢様――平野遥香がいるだけだ。
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