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チャプター 2 中絶
退院の日、東京には弱い雨が降っていた。 望月澪は、軽い入院用のバッグを手に持っていた。手首にはテープを貼っていた跡が青く残り、下腹部にはまだ鈍い痛みがあった。 自動ドアを出たばかりで、看護師から言われた、しばらく無理をしないこと、体を冷やさないことという言葉がまだ耳に残っていた。 けれど顔を上げた瞬間、少し離れた場所に、見慣れた黒い車が止まっているのが見えた。 神崎拓真が車のそばに立っていた。 澪が以前選んであげた濃い色のコートを着て、傘のほとんどを隣にいる女性のほうへ傾けていた。 その女性は橘千夏だった。 橘千夏は今日、淡い色のロングワンピースを着て、その上に白に近いベージュのカーディガンを羽織っていた。化粧も薄く、全体的に優しく清潔そうに見えた。 彼女は四、五歳くらいの男の子の手を引いていた。 男の子は小さなスーツを着て、髪もきれいに整えていた。顔を上げたとき、その横顔がちょうど望月澪の目に入った。 望月澪の足が止まった。 その子の目元は、神崎拓真にあまりにもよく似ていた。 近くにいた人が橘千夏に気づき、小声で話し始めた。 「あの人、『雪の終章』の主演女優じゃない? 実物もすごくきれい」 「隣の人は旦那さんかな。優しそう。傘がほとんど彼女のほうにかかってる」 「子供もお父さんにそっくり。三人で並ぶと本当に絵になるね」 「幸せそう。だから復帰したばかりなのに、あんなに調子がいいんだろうね」 その言葉が一つずつ望月澪の耳に入り、彼女の指先は少しずつ強く握られていった。 入院用のバッグの持ち手が手のひらに食い込み、少し痛かった。 病室で過ごしたこの一週間、澪は何度も考えていた。 神崎拓真は来るだろうか。 もし来たら、何から話せばいいのか。 なぜ電話に出なかったのかと先に聞くべきか、それとも離婚届をそのまま渡すべきか。 けれど、こんな形で再会するとは思っていなかった。 澪は子供を失い、手術室から生きて戻ってきた。 一人で入院し、一人で支払いも済ませた。 その間、神崎拓真は橘千夏と、自分によく似た子供を連れて病院の前に立ち、通りすがりの人から幸せな三人家族だと言われていた。 望月澪は三人を見つめ、思わず冷たく笑った。 三人家族? 不倫相手と自分の夫が一緒にいるだけで、何が三人家族なのだろう。 神崎拓真も澪に気づいた。 彼の視線は澪の顔を通り過ぎ、手に持っている入院用のバッグに落ちた。 眉がほんの少しだけ寄った。 望月澪は、せめて一言くらい、どうしてここにいるのかと聞かれると思った。 けれど、彼は何も聞かなかった。 その場にいてはいけない人を見たように、すぐに視線をそらした。 それとも、橘千夏に澪の存在を気づかせたくなかったのかもしれない。 彼は橘千夏に何かを小声で伝えると、彼女と子供を守るように車へ連れていった。 望月澪はその姿を見ていたが、思っていたほど苦しくはなかった。 風に流された雨が顔に当たった。 我に返ったときには、神崎拓真の車はもう走り去っていた。 澪は病院の入口にしばらく立ってから、手を上げてタクシーを止めた。 運転手に行き先を聞かれ、家の住所を伝えた。 声があまりにも小さかったため、運転手はもう一度確認した。 「お客さん、この住所で合っていますか?」 「はい」 澪は後部座席にもたれ、痛む目を閉じた。 下腹部はまだ鈍く痛み、体にも力が入らなかった。 それでも、ホテルにも友人の家にも行きたくなかった。 身分証、銀行のカード、パスポート、それから母が残した写真を取りに戻らなければならない。 あの家からは、ひとまず出るつもりだった。 食卓に残ったままの料理も、神崎拓真の服も、靴も、ネクタイも、もう見たくなかった。 あの家に残った彼の匂いも、もう嗅ぎたくなかった。 あの部屋は、もともと澪が結婚前に買ったものだった。 けれど、この五年間で、少しずつ神崎拓真の好みに合わせて変えていった。 壁の絵も彼が好きなものだった。 書斎の机と椅子も、彼が気に入ったものだった。 食器の色まで、彼が見ていて落ち着くと言った色にそろえていた。 神崎拓真の跡が残っているものを、もう何一つ見たくなかった。 タクシーがマンションの前に着いた頃には、雨は少し弱くなっていた。 望月澪は料金を払い、入院用のバッグを持って上へ向かった。 ドアを開けた瞬間、傷んだ料理の臭いが流れ込んできた。 結婚五周年の夜の食卓は、あの日のまま残っていた。 この数日間、拓真は一度もこの家に帰っていなかったのだ。 たぶん、いちばんつらい時期はもう過ぎた。 澪は病室で七日間を過ごした。 その七日間、彼は一度も見舞いに来なかった。 メッセージさえ、一通も送ってこなかった。 おそらく拓真は、この七日間ずっと橘千夏のそばにいたのだろう。 望月澪は玄関に立ち、長い間その光景を見ていた。 以前の彼女なら、すぐに窓を開けて空気を入れ替えたはずだ。 食卓を片づけ、床に残った血もしゃがんで拭き取っただろう。 神崎拓真が帰ってきたとき、機嫌を悪くしないように。 けれど今、澪は靴を履き替え、入院用のバッグを脇に置いただけだった。 食卓を避け、そのまま寝室へ向かった。 もう片づけたくなかった。 神崎拓真のために、この家をきれいに保つ必要などなかった。 寝室には、結婚したときに二人で選んだ寝具がまだ置かれていた。 ベッドの横には、暖かい黄色の光を出す小さなランプがあった。 望月澪はクローゼットを開け、まず身分証をまとめたケースを取り出した。 銀行のカード、印鑑、パスポート、医療関係の書類も一緒にバッグへ入れた。 動きは速くなかった。 腰を曲げると下腹部が痛み、長く立っていると足にも力が入らなくなった。 少し片づけては、クローゼットにもたれて休まなければならなかった。 引き出しのいちばん奥から、母が残した古い写真を取り出したとき、澪の指先が止まった。 写真の中で、母は桜の木の下に立ち、優しく笑っていた。 あの頃はまだ母も生きていた。 望月澪も神崎拓真と出会っていなかった。 彼女の人生も、誰かのせいでこんな泥の中に引きずり込まれてはいなかった。 澪は写真をバッグに入れ、ファスナーを閉めた。 クローゼットの反対側には、神崎拓真から贈られたドレスが掛かっていた。 ある年の記念日に買ったストールやアクセサリーもあった。 どれも高価で、きれいに見えた。 けれど望月澪は一度見ただけで、手を触れなかった。 普段着ている服を何着か取り出し、薬、充電器、昔の舞台ノートを数冊、スーツケースに入れた。 妊娠を知らせる書類も、入院用のバッグから取り出し、もう一度バッグの内側にしまった。 紙を少し伸ばしてみたが、それでもしわは残っていた。 どうしても最初の状態には戻れないようだった。 最後まで荷物をまとめても、スーツケースはいっぱいにはならなかった。 この家に五年間住んだのに、本当に自分のもので、どうしても持っていかなければならないものは、これだけしかなかった。 望月澪はスーツケースを引いて玄関へ向かった。 ドアを開けようとしたとき、外側から鍵の音がした。 澪の手が空中で止まった。 神崎拓真が帰ってきたのだろうか。 次の瞬間、カチャリと音を立ててドアが開いた。 けれど、そこに立っていたのは神崎拓真ではなかった。 橘千夏だった。 片方の手であの子供を連れ、もう片方の手には子供の上着と小さなリュックを持っていた。 まるで少し買い物をして戻ってきただけのように、自然な様子だった。 望月澪を見た瞬間、彼女の顔に少しだけ驚きが浮かんだ。 けれどすぐにそれを隠し、優しそうで困ったような表情を作った。 「澪さん、帰っていたんですね」 望月澪は何も言わなかった。 橘千夏が暗証番号を押した手に視線を向け、それから隣にいる子供の小さな革靴を見た。 橘千夏より先に、子供が口を開いた。 子供は望月澪を見てから、その後ろにあるスーツケースを見た。 すぐに眉を寄せ、隠そうともせず不満そうな声を出した。 「誰?」 望月澪は体の横で、ゆっくりと手を握りしめた。 橘千夏は子供の手を軽く引き、優しい声で言った。 「失礼なことを言わないの」 けれど、そう言われた子供はかえって不機嫌になった。 顔を上げ、突然入ってきた知らない人を見るように望月澪を見た。 「答えてよ。誰なの? どうして僕の家にいるの?」
章一覧
全39章
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