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チャプター 3 盗まれた
望月澪はもともと、もう出ていくつもりだった。 けれど、子供のその言葉を聞いた瞬間、急に残りたいと思った。 彼女はただ、ひとまずここを離れようとしていただけだ。 自分の家を誰かに譲るつもりはなかった。 橘千夏は子供の手を軽く引き、優しい声で言った。 「悠真、そんな言い方をしちゃだめよ」 口ではだめだと言いながら、子供を外へ連れ出そうとはしなかった。 それどころか、手を引いたまま、玄関の中へもう一歩入ってきた。 子供の小さな革靴が床を踏み、乾いた音を立てた。 まるで、自分たちはもう中に入ったのだと、わざと望月澪に知らせているようだった。 望月澪は胸が苦しく、退院したばかりの体にも力が入らなかった。 それでも、後ろには下がらなかった。 スーツケースの持ち手から手を離し、そばの棚につかまって立つと、橘千夏を見た。 「誰に暗証番号を教えてもらったの?」 橘千夏の目が一瞬揺れた。 けれど、すぐにいつもの優しそうな表情に戻った。 「澪さん、誤解しないでください」 彼女は静かに言った。 「拓真が、私が帰国したばかりで、悠真を連れてホテルに泊まるのは不便だろうって。それに、ここは劇場にも近いし、子供も楽に過ごせるから、しばらく住んでいいと言ってくれたんです」 あまりにも自然な言い方だった。 本当に数日間、借りて住むだけのように。 望月澪が気にするほうが、心が狭いとでも言うように。 望月澪はそれを聞き、急におかしくなった。 神崎拓真は、ずいぶん簡単に言ってくれたものだ。 けれど、この家は最初から最後まで、神崎拓真のものではない。 望月澪が結婚する前に買った家だった。 あの頃、彼女はまだ神崎拓真と結婚していなかった。 夜遅くまで舞台の稽古を続け、出演料や公演の報酬を少しずつ貯めていた。 そこに、母が亡くなる前に残してくれたお金を足して、ようやくこの家を買った。 階も自分で選び、内装も自分で決めた。 リビングの照明も、三軒の店を回って選んだものだった。 あの頃の澪は、ここが神崎拓真との本当の生活を始める場所になると思っていた。 結婚してからは、彼の服をクローゼットに入れ、彼の本を書斎へ運び、彼の生活習慣を少しずつこの家に取り入れていった。 それが家庭なのだと思っていた。 けれど今日になって、やっと分かった。 長く住んでいるうちに、他人のものまで自分が自由にしていいと思い込む人もいるのだ。 望月澪が何も言わないため、子供はさらに強気になった。 顔を上げ、彼女を見ながら言った。 「パパが、ここは僕とママの新しい家だって言ったんだ。早く出ていって。僕たちの家のものに触らないで」 その「パパ」という言葉に、望月澪の指先が小さく震えた。 病院の前で周りの人たちが話していたことも、聞こえていた。 この子供の顔が神崎拓真に似ていることにも、気づいていた。 けれど、子供の口から本当に「パパ」という言葉を聞くと、それでも一瞬、頭がぼんやりした。 橘千夏は澪の顔色が変わったことに気づいたらしい。 すぐに子供を見下ろし、優しい声で言った。 「悠真、そんなことを言わないの。澪さんは体調が悪いんだから、怖がらせたらだめよ」 子供を叱っているように聞こえた。 けれど、何一つ否定していなかった。 神崎拓真が子供の父親だということも。 ここが二人の新しい家だということも。 望月澪は体の横で、ゆっくりと手を握りしめた。 強く握った指の関節が白くなった。 彼女がここを出ようとしたのは、神崎拓真にうんざりしたからだ。 けれど、だからといって、神崎拓真が彼女の家を勝手に人へ渡していい理由にはならない。 望月澪は突然、笑った。 橘千夏はそんな反応を予想していなかったのか、表情を少しこわばらせた。 「橘千夏」 望月澪は彼女を見て、一言ずつはっきり言った。 「神崎拓真には、あなたをここに住まわせる権利なんてない」 橘千夏は顔を上げ、ちょうどいい程度に無実そうな表情を浮かべた。 「澪さん、今は気持ちが落ち着かないことも分かります。でも、これは拓真が決めたことです。ここは空いているんだから、私と悠真が住んでも、あなたには何の影響もないと言っていました」 「空いているんだから?」 望月澪はその言葉を繰り返し、さらに冷たく笑った。 「彼がそう言ったの?」 橘千夏は唇を結び、何も答えなかった。 子供は苛立ったように足を踏み鳴らした。 「この悪い女、どうしてまだ出ていかないの? パパも言ったんだ。ここは僕とママの家だって。早く出ていけ!」 望月澪はその子供を見た。 まだ四、五歳なのに、あまりにも失礼な話し方だった。 神崎拓真によく似たその顔を見ていると、残っていたわずかな我慢も完全に切れた。 彼女は手を伸ばし、スーツケースを横へ押した。 車輪が靴箱にぶつかり、鈍い音がした。 橘千夏は思わず半歩下がった。 「澪さん、何をするつもりですか?」
章一覧
全39章
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