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チャプター 1 周年
望月澪が流産した夜、夫は劇場で、初恋の女性の復帰後初となる舞台を見ていた。 看護師から手術同意書を渡されたときも、澪の指は震えていた。指先には乾いた血がこびりつき、何度拭いてもきれいにならなかった。 神崎拓真への電話がようやくつながった瞬間、澪はほとんど無意識に息をついた。 けれど次の瞬間、聞こえてきたのは彼の声ではなく、劇場から響く何度もの拍手だった。 望月澪はしばらく動けなかった。喉に何かが詰まったようで、用意していた助けを求める言葉がそこで止まり、声すら出なかった。 「望月澪?」 電話の向こうから、ようやく神崎拓真の声がした。声を低く抑えていたが、はっきりと苛立っていた。 「今度は何だ?」 澪は歯を食いしばり、ベンチの端に手をついた。できるだけはっきり聞こえるように話した。 「神崎拓真、私、病院にいるの。先生が、赤ちゃんは助からないかもしれないって。手術の同意書にサインしに来てくれない?」 電話の向こうが、二秒ほど静かになった。 その二秒の間に、澪は自分でも笑ってしまうほど、少しだけ期待していた。 自分が病院にいると知れば、彼も慌てるかもしれない。生まれてくるはずだった子供のことを聞けば、少しは心が動くかもしれない。 けれど、何もなかった。 神崎拓真は周りに聞かれるのを避けるように、声を抑えて言った。 「今日は千夏の復帰公演なんだ。俺は何年も彼女のそばにいられなかった。だから、この舞台だけは見逃したくない。体調が悪いなら医者の指示に従え。何でも俺を呼び出すな。それに、体調が悪いことを理由に、いつも俺を家に帰らせようとするのはやめろ」 澪が口を開こうとした瞬間、腹部にまた激しい痛みが走った。中を強くねじられたような痛みで、目の前が真っ暗になり、その場に倒れそうになった。 看護師が慌てて彼女を支え、まだ耐えられるかと声をかけた。 けれど澪の耳には、神崎拓真の言葉しか残っていなかった。 彼は、澪が自分を無理やり家に帰らせようとしていると言った。 望月澪は、急に何もかもがばかばかしくなった。 あまりにもばかばかしくて、涙すら出なかった。 「拓真、どうしたの?」 橘千夏の声だった。 神崎拓真が何年もの間、心のいちばん大事な場所に置いてきた女性だ。 神崎拓真の声は、すぐに優しくなった。 「何でもない。すぐそっちに行く」 そう言ってから、望月澪がまだ電話の向こうにいることを思い出したように、また冷たい声に戻った。 「望月澪、くだらないことをするな」 電話を切られたあとも、望月澪はスマートフォンを握ったまま動けなかった。 切断音が何度も耳に響く。 澪は暗くなった画面を、長い間見つめていた。 愛されている人と、愛されていない人の違いは、こんなにもはっきりしているのだ。 看護師は澪の顔色を見て、声を少しやわらげた。 「望月さん、ご本人の意識がはっきりしていて、判断する力もある場合は、ご自分で手術同意書に署名できます。ただ、これ以上は待てません。ご家族を待ち続けるのは危険です」 望月澪は、その薄い同意書を見つめた。 そして今朝、指輪の箱をきれいに拭きながら、夜になったら神崎拓真にどうやって妊娠を伝えようかと考えていたことを思い出した。 今日は、神崎拓真と結婚して五年目の記念日だった。 澪は一日休みを取り、スーパーへ行った。 彼の好きな和牛、ウニ、日本酒を買い、わざわざ遠い店まで足を運んで、いちごのケーキも買った。 家に帰ると、ダイニングテーブルを二度拭き、新しいテーブルクロスをかけ、結婚したばかりの頃に撮った二人の写真をまっすぐに置いた。 写真の中の神崎拓真は、まだ誰よりも澪を愛していた。 あの頃、澪もまだ舞台に立っていた。 『雪の終章』の最初のAキャストは、本来なら彼女だった。 その役のために、澪は丸一年練習した。 足の爪が剥がれたこともあった。膝が腫れたこともあった。靱帯を痛め、歩くだけでも痛かった。 それでも、諦めようと思ったことは一度もなかった。 初演の出演者が発表された日、劇団の先輩が澪の肩を叩いて言った。 望月澪、今度こそ本当に売れるよ、と。 けれど、そのあとに起きた交通事故が、すべてを壊した。 あの日も、激しい雨が降っていた。 神崎拓真が澪を迎えに来ていた。 向かいから来たトラックが制御を失って突っ込んできたとき、澪は結果を考える暇もなかった。 頭で考えるより先に体が動き、拓真をかばうように飛び出していた。 目を覚ましたあと、医師から靱帯が切れていると告げられた。 回復の状態も良くなく、今後は舞台で激しい動きをすることはできないと言われた。 澪は病院のベッドに横たわったまま、長い間何も言えなかった。 神崎拓真は彼女の手を握り、目を赤くしながら、一生澪の面倒を見ると言った。 その後、澪は『雪の終章』を降りた。 橘千夏が帰国し、当然のように澪の代わりにその役へ入った。 その頃から、神崎拓真が澪に感じていた罪悪感は、少しずつ薄れていった。 家に帰る時間はどんどん遅くなり、服からはいつも女性の香りがした。 人間は、ときどき不思議なことをする。 ここまで冷たくされているのに、それでも相手のために理由を探してしまう。 仕事が忙しい。 大きなストレスを抱えている。 長く一緒にいれば、夫婦の関係も薄れていく。 望月澪は、そんな言葉を何度も自分に言い聞かせていた。 だから今日も、ずっと拓真を待っていた。 午前十一時には料理を作り終えていた。 けれど夜の十一時になっても、彼からは何の連絡もなかった。 和牛は冷えて白い脂が固まり、ウニからも少し生臭いにおいがしていた。 長く座っていたせいで、足がひどくしびれていた。 立ち上がって料理を捨てようとしたが、一歩踏み出した瞬間、腹部が強く下へ引っ張られた。 澪はそのまま床に激しく倒れ、膝をテーブルの角にぶつけた。 あまりの痛みに、息をのんだ。 けれど膝の痛みは、すぐに腹部の痛みにかき消された。 下を見ると、スカートの裾が濡れていた。 暗い赤色の血が、体の下からゆっくりと広がっていた。 怖くて、声も出なかった。 最初に考えたのは、スマートフォンを探して神崎拓真に電話をかけることだった。 スマートフォンはすぐそばのローテーブルに置いてあった。 けれど、澪はそこまで這っていくことしかできなかった。 床は冷たかった。 それなのに、体の中から流れ出す血は熱く、足に沿って流れ落ちていった。 何度も彼に電話をかけた。 けれど、一度も出なかった。 最後には、澪が自分で救急車を呼ぶしかなかった。 電話の担当者は、意識を失わないようにと言い、住所、妊娠週数、出血の状態を聞いた。 澪は途切れ途切れに答えた。 自分でも聞こえないほど、小さな声だった。 担当者は、救急車をできるだけ早く向かわせると言った。 けれどその日は、東京都内で玉突き事故が起きていた。 大雨のせいでいくつもの幹線道路が渋滞し、近くにいた救急車もほかの現場へ向かっていた。 澪は血の広がった床の上で、二時間待った。 その二時間は、ひどく長かった。 自分はこのまま死ぬのかもしれないと、何度も思った。 救急車が到着した頃には、澪は周りの音もほとんど聞こえなくなっていた。 誰かが自分を担架に乗せ、誰かが血圧を測り、誰かが家族はどこにいるのかと聞いていた。 澪は看護師の袖をつかみ、赤ちゃんは助かるのかと何度も聞いた。 けれど、看護師は答えなかった。 答えてもらえないだけで、澪にはもう分かっていた。 医師は、すぐに処置をしなければならないと言った。 そうしなければ、子供が助からないだけではなく、澪自身も大量出血で命を落とすかもしれない。 望月澪はペンを握り、手術同意書に自分の名前を書いた。 最後の一画を書いたとき、震える指は自分のものではないようだった。 文字はゆがみ、インクが不格好に伸びていた。 まるで笑い話のように、ひどい字だった。 看護師がベッドを押し、澪を奥へ運んでいく。 頭上の照明が、一つずつ目の前を流れていった。 突然、スマートフォンの画面が明るくなった。 神崎拓真からのメッセージだった。 【帰ったらなだめてやる。今日は本当に用事があるんだ】 澪はその文字を、長い間見つめていた。 急に、ひどく疲れた。 震える手で、五年間いちばん上に固定していた連絡先の表示名を消した。 「拓真」から「神崎拓真」に戻し、彼に一言だけ返した。 離婚しましょう。 送信したあと、澪はスマートフォンの画面を下にして、ベッドの脇に置いた。 手術室へ運ばれる直前、望月澪は最後に一度、窓の外を見た。 あの交通事故のとき、拓真をかばっていなかったら。 舞台を降りていなかったら。 神崎拓真と結婚していなかったら。 自分の人生は、今とは違っていたのだろうか。 けれど、そんなことを考えても意味はない。 この子がもう戻ってこないのと同じように、一生澪の面倒を見ると言ったあの男も、ずっと前から戻ってこなくなっていた。
章一覧
全39章
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