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第1章
カレンダーの日付に、杉野佳菜は小さく微笑んだ。四月十五日。 夫である赤坂聡志と結婚して、四年目の記念日。 彼女は丁寧に磨き上げたリビングを見渡した。埃一つないテーブル。ピカピカのフローリング。 まるで、彼女が必死に維持してきた、この結婚生活そのものだ。 冷蔵庫から、あらかじめ用意しておいた高級和牛を取り出す。 今夜は彼の好きなビーフシチュー。腕によりをかけて、最高のディナーにするつもりだった。 聡志が一番好きだと言ってくれた、オフホワイトのワンピースに着替える。 薄く化粧を施し、準備は万端だった。あとは主役の帰りを待つだけ。 壁の時計の針が、午後七時を指した。聡志はまだ帰ってこない。 佳菜はスマートフォンを手に取り、メッセージを送った。 「今夜は早く帰ってこれる?サプライズがあるの」 すぐに既読の文字が表示された。だが、返信はない。 胸の中にじわりと広がった期待に、小さな影が落ちる。 大丈夫。聡志は仕事が忙しいのだ。いつものことじゃないか。 自分にそう言い聞かせた。 時間は一分、また一分と過ぎていく。 丁寧に作ったビーフシチューが、少しずつ冷めていく。 佳菜の心も、それに合わせて温度を失っていくようだった。 午後十時。玄関のドアの方で、カチャリと鍵の開く音がした。 佳菜は弾かれたように立ち上がり、顔に笑顔を貼り付けた。 ドアが開く。そこに立っていたのは、聡志だけではなかった。 彼の友人の高橋拓也も一緒だった。二人とも強い酒の匂いをまとっている。 佳菜の笑顔が、顔の上で凍りついた。 聡志は、テーブルに並べられた料理を一瞥し、眉をひそめた。 「なんだこれ。大袈裟だな」 高橋が慌てて、場を取り繕うように言った。 「お、すごいご馳走じゃないか!聡志、お前は幸せ者だな」 「もういい」 聡志は億劫そうに手を振った。 「書斎で仕事の話をする。佳菜、悪いけど、お茶を淹れてくれないか。酔い覚ましに」 佳菜は黙って彼を見つめた。今日が何の日か、伝える言葉は出てこなかった。 彼女は静かに踵を返し、キッチンへ向かった。 お茶を乗せたトレイを運び、書斎のドアの前まで来た。 ドアは完全には閉まっていなかった。中から、ひそやかな笑い声が漏れてくる。 高橋の声だった。 「しかし、お前も大したもんだよな。木下彩華に毎月三百万だろ?それを四年間だ。瞬きもせずに」 「お前の奥さん、知ってんのか?」 その瞬間、佳菜の手が激しく震えた。熱いお茶が手首にこぼれ落ちる。 焼けるような痛み。でも、佳菜は何も感じなかった。 聡志の、酔いを含んだ軽蔑的な笑い声が響いた。 「あいつが?知るわけないだろ。児童養護施設出身の女だぞ」 「俺と結婚できただけで、あいつにとっては一生分の幸運なんだから」 「じゃあ、なんでまた結婚なんかしたんだよ。彩華さん、戻ってきたんだろ?」 聡志は冷笑した。 「結婚?ああ。あの時、彩華が海外に行くなんて言わなければな」 「俺には甲斐性がないとでも言いたげな顔で。だから、こういう女と結婚して、あいつに見せつけてやる必要があったんだ」 「俺は赤坂聡志だぞと。お前がいなくても、俺には家庭がある。俺に尽くしてくれる女がいるんだと、思い知らせてやりたかったのさ」 世界がぐらりと揺れた。耳の奥で、キーンという音が鳴り響いている。 壁に手をつかなければ、立っていることさえできなかった。 ガシャン。トレイが床に落ち、けたたましい音を立てた。 書斎の中の会話が、ぴたりと止まる。 勢いよくドアが開かれた。 聡志が、床の惨状と血の気を失った佳菜の顔を見て、一瞬間だけ狼狽の色を見せた。 だが、それはすぐに苛立ちと嫌悪に変わった。 「なんだ、大袈裟な。トレイ一つ、まともに持てないのか」 佳菜の唇が震える。だが、声にならない。 高橋が気まずそうに出てきて、そそくさと帰って行った。 聡志は煩わしげにネクタイを緩めた。 「もういい。今夜は書斎で寝る」 バタン。書斎のドアが閉められた。 冷たく暗いリビングに、佳菜は一人取り残された。 彼女はゆっくりと床にしゃがみ込む。 テーブルの上には、誰にも触れられることのなかった冷え切った料理。 静かな部屋に、彼女の涙が落ちる音だけが響いていた。
章一覧
全240章
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