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ドン、と鈍い音が響く。 真之介は、杏樹を冷たい壁に叩きつけるように押し付けた。両腕を彼女の身体の横につき、逃げ場のない檻を作る。 杏樹は恐怖に目を閉じた。心臓が狂ったように鳴り響く。彼の身体から漂う、煙草とコロンの混じった危険な香りが鼻をついた。 「目を開けろ」 温度のない声が命令する。 杏樹は震えながら瞼を上げた。目の前には、底の見えない彼の瞳。そこには、彼女には理解できない冷たい嵐が渦巻いていた。 彼は杏樹の手からカフスボタンを奪い取ると、親指でその表面をなぞった。その目に、一瞬だけ複雑な感情がよぎる。 「言え。何が望みだ?」 彼の声は嘲りに満ちていた。 「このガラクタ一つで、俺から何か引き出せるとでも思ったか?」 杏樹は、信じられないという顔で彼を見つめた。 「私……私はただ、これを返したくて。私が欲しかったのは……」 「答えか?」 彼は彼女の言葉を遮り、冷笑した。 「四年前の夜など、俺にとってはただの事故だ。酒の上の間違いに過ぎん」 「間違い」という言葉が、鋭い刃物のように杏樹の鼓膜を貫いた。 四年間、宝物のように大切にしてきた記憶が、彼によっていとも容易く定義されてしまった。 彼女の瞳が、みるみるうちに赤く潤んでいく。しかし杏樹は、意地でも涙を流すまいと唇をきつく噛みしめた。 「信じません」 声が掠れていた。 涙を堪える彼女の姿を見て、真之介の胸の奥がちくりと痛む。だが、彼が口にした言葉はさらに残酷だった。 「信じるかどうかはお前の勝手だ。お前のような女は見飽きるほど見てきた。一度身体を重ねれば、一生面倒を見てもらえると勘違いしている」 彼は片手を離すと、スーツの内ポケットから財布を取り出した。 杏樹は、彼の行動の意味が分からず、ただ見つめる。 彼は中から小切手帳とモンブランの万年筆を取り出した。 サラサラとペンを走らせ数字を書き込むと、その一枚をちぎり取る。 そして、まるで物乞いに施しを与えるかのように、その小切手を彼女の目の前に突きつけた。 「値段をつけろ」 彼は言った。 「お前の四年間分の“好き”とやらは、いくらだ?この数字で足りるか?」 杏樹の視線が小切手に落ちる。そこには、彼女には数え切れないほどのゼロが並んでいた。 巨大な羞恥心が彼女を飲み込んでいく。自分の心の中で何よりも尊いと思っていた感情が、彼の目には値段をつけられる商品でしかなかったのだ。 身体が震え始めた。恐怖ではない。極度の怒りと絶望からだった。 「あなた……何もかも、お金で測れると思っているんですか?」 彼女は途切れ途切れに、涙声で尋ねた。 「でなければ?」 彼は問い返す。 「それとも、もっと欲しいか?篠原さん。人間、あまり欲張るものじゃない」 杏樹は衝動的に手を振り上げた。 その手が、彼が差し出す小切手を弾き飛ばす。 ひらひらと宙を舞った紙片は、汚れた地面に落ちた。 真之介の目が、一瞬にして凍りついた。 「あなたのお金なんていらない!」 杏樹はついに感情を抑えきれず叫んだ。涙が堰を切ったように頬を伝う。 「私はただ……あなたが少しでも……ほんの少しでもいいから……」 好きだったかと聞きたかった。 だが最後の言葉は声にならなかった。答えはもう分かってしまったからだ。 彼は涙を流す彼女の顔を、ただ黙って見つめていた。その沈黙こそが、何よりも残酷な答えだった。 杏樹の心は完全に砕け散った。四年間見続けた夢は、もうどこにもない。

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章一覧

全90章

  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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