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第3章
杏樹の叫び声が狭い路地に響き渡った後、息の詰まるような沈黙が訪れた。 彼女は手の甲で乱暴に涙を拭う。その瞳から悲しみの色は消え、代わりに空虚な冷たさが宿っていた。 目の前の男を、まるで初めて見る生き物のように見つめる。恐ろしく、そして見知らぬ誰かだ。 真之介は彼女の瞳の変化を見ていた。見えない手に心臓をきつく握り潰されるような痛みを感じる。だが、それを表情に出すわけにはいかなかった。 「私の一人よがりだったみたいですね」 杏樹の声は、痛々しいほどに穏やかだった。 彼女は一歩下がり、彼との間に距離を作る。それは、過去四年の自分自身との決別でもあった。 彼女は身を屈めると、地面に落ちているカフスボタンを拾い上げた。小切手には目もくれない。 そして彼の前に歩み寄り、そのカフスボタンを彼のスーツのポケットに強く押し込んだ。 「あなたの“間違い”、お返しします」 その仕草は決然としていて、彼女の指先は氷のように冷たかった。 彼女の指が触れた瞬間、真之介の身体が硬直する。ポケットの中のカフスボタンの硬い感触が、彼の胸を、そして心を抉った。 「それから」 杏樹は顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに見据えた。 「坂本さん。覚えておいてください」 「今日、あなたに会いに来たことは、私、篠原杏樹の人生で一番愚かで最低の間違いでした」 一言一言が、釘のように真之介の血肉に打ち込まれていく。何か言わなければ。だが、喉が張り付いて一つの言葉も出てこない。 杏樹は言い終えると、一切の未練も見せずに踵を返した。 薄暗い照明に照らされた彼女の後ろ姿は、あまりにもか細く、そしてあまりにも決然としていた。 「待て」 彼女が路地の出口に差し掛かった時、真之介がようやく口を開いた。 杏樹は足を止める。だが、振り返ることはなかった。 「二度と俺の前に現れるな」 彼の声は鉄のように硬く冷たかった。それは命令であり、最後の警告だった。 その言葉が、杏樹を支えていた最後の何かを粉々に打ち砕いた。 彼女の身体がぐらりと揺れる。だが、すぐに体勢を立て直した。 「ご心配なく」 彼女は振り返らないまま、はっきりとした声で言った。 「死んでも、あなたの前に現れたりしませんから」 そう言い残し、彼女は一度も振り返ることなく路地を出て、夜の闇に消えていった。 路地には、真之介が一人取り残された。 彼は、彼女の足音が完全に聞こえなくなるまで、冷酷な仮面をつけたまま立ち尽くしていた。 やがて張り詰めていた身体の力が抜け、冷たい壁に背中を預ける。 彼は壁に向かって、重い拳を叩きつけた。ゴッ、と鈍い音がして、指の関節が砕け血が滲む。 痛みが彼を現実に引き戻す。だが、胸を締め付ける激痛を和らげることはできない。 ポケットからカフスボタンを取り出し、掌で強く握りしめる。角が手のひらに食い込んだ。 彼はゆっくりと屈み込むと、杏樹が捨てた小切手を拾い上げた。 そこに自分で書いた数字を見つめ、その目に果てしない苦痛と自嘲の色が浮かぶ。 「坂本様……」 運転手が、路地の入り口から心配そうに声をかけた。 真之介は立ち上がり、いつもの無表情に戻る。ただ、その声はひどく嗄れていた。 「車を出せ」
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