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第3章
『Éclat Bijoux』のショーのバックステージは、嫉妬と軽蔑の渦巻く戦場だった。綾乃が姿を現した途端、四方八方からひそひそ話と嘲笑が浴びせられる。 「あら、愛のために引退した石沢先輩じゃない。またお金に困って出てきたのかしら」 かつての後輩モデルが、わざと聞こえるように言った。 綾乃は、その言葉を無視した。穏やかな微笑みを浮かべたまま、自分のメイクスペースへと向かう。彼女の纏う圧倒的なオーラに、周囲のざわめきが一瞬だけ静かになった。 そこへ、高瀬翔太が現れた。彼は、デザインの平凡なドレスを綾乃に乱暴に押し付ける。 「これを着ろ。いいか、お前は美咲の代役に過ぎない。主役はジュエリーだ。絶対に目立つなよ」 綾乃は、そのドレスを受け取った。指先が、ごわごわとした安物の生地に触れる。彼女は静かに頷いた。 「承知いたしました。社長」 更衣室に入った綾乃は、その平凡なドレスに数カ所、結び目を作った。そして、ウエスト部分をたくし上げ、ドレープの位置をずらす。たったそれだけのことで、ドレスはまるでオートクチュールのように、洗練されたシルエットに生まれ変わった。 彼女が再び姿を現した時、バックステージの誰もが息を呑んだ。翔太も一瞬、言葉を失ったが、すぐに不快そうに顔を歪める。しかし、ショーはもう始まっていた。 綾乃の出番が来た。彼女は、ブランドのメイン商品であるダイヤモンドネックレス「永遠の涙」を身につけ、ランウェイへと歩み出す。 スポットライトが彼女を照らした瞬間、空気が変わった。そこにいたのは、もはや温厚な石沢綾乃ではなかった。かつて、この世界の頂点に君臨した、T台の女王だった。 一歩、また一歩と、音楽のリズムを完璧に捉えた足取り。観客を射抜くような、強く、それでいて憂いを帯びた眼差し。彼女の動きの一つ一つが、ジュエリーの輝きを最大限に引き出しながら、彼女自身の存在感を何倍にも増幅させていく。 客席が、ざわめき始めた。 「あのモデルは誰だ?小西美咲じゃないぞ!」 最前列に座っていたブランドの創業者である渡辺修と、デザイナーの木村由紀が、呆然とした表情でステージを見つめている。その表情は、やがて歓喜へと変わった。綾乃のパフォーマンスは、彼らの期待を遥かに超えていた。 ランウェイの先端で、ポージングを決める瞬間。綾乃は、ネックレスの留め具を、誰にも気づかれぬよう、指先で僅かに緩めた。 ネックレスが、彼女の胸元から滑り落ちそうになる。観客が息を呑んだ、その刹那。 綾乃は、しなやかな動きで身を翻し、落ちる寸前のダイヤモンドを、自らの鎖骨で完璧に受け止めた。そして、カメラに向かって、妖艶な微笑みを浮かべる。 計算され尽くした、あまりにも美しいアクシデント。会場中のフラッシュが、一斉に焚かれた。 動揺した司会者が、大声で叫ぶ。 「小西美咲さんの素晴らしいパフォーマンスでした!」 その声に、綾乃はマイクを手に取り、静かに訂正した。 「申し訳ございません。わたくし、石沢綾乃と申します」 会場は、水を打ったように静まり返った後、爆発的な騒ぎに包まれた。石沢綾乃。その名前は、かつての一時代を象徴する名前だったからだ。 バックステージで、翔太は顔を青ざめさせていた。自分が、この女に嵌められたのだと、ようやく理解した。 デザイナーの木村由紀が、怒りの形相でステージに駆け上がってくる。 「高瀬社長!これはどういうことですか!契約違反です!」 メディアの記者たちが、ステージ上に殺到した。彼らは、マイクを突きつけ、綾乃と翔太に容赦ない質問を浴びせる。 「石沢さん、これは復帰のための計画的な炎上商法ですか?」 「高瀬社長、事務所ぐるみの詐欺行為では?」 綾乃が、人々の波に飲み込まれそうになった、その時だった。 会場の入り口が、にわかに騒がしくなった。屈強なボディガードに囲まれ、一人の男がゆっくりと歩いてくる。鷹司暁。その圧倒的な存在感に、人々はモーゼの海割りのように、自然と道を開けた。 彼は、まっすぐに綾乃の元へ歩み寄ると、自分の着ていたジャケットを脱ぎ、薄いドレスで冷えた彼女の肩に、そっと掛けた。 その仕草は、あまりにも自然で、そして独占欲に満ちていた。 会場の喧騒が、嘘のように静まる。 暁は、記者たちに氷のような視線を向けた。 「諸君。私の会社は、このイベントの筆頭スポンサーだ。パートナー企業に起きたこの不測の事態について、説明を求めたい」 彼は、翔太の方へ向き直る。その瞳は、鋭利な刃物のようだった。 「高瀬社長、だったかな?」 暁の威圧感に、翔太は全身から冷や汗を噴き出し、一言も発することができない。 暁は、もはや翔太に興味を失ったように、綾乃に視線を戻した。そして、誰もが驚くほど優しい声で、彼女に告げた。 「帰るぞ」 彼は、綾乃の腰を抱き、全ての視線を集めながら、悠然と会場を後にした。
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