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第2章
「こちらが、奥様の新しいお住まいになります」 井上に案内されたのは、東京の夜景を一望できる、タワーマンションの最上階だった。広すぎるリビングには、最低限の家具しか置かれていない。その極端にミニマルで、無機質な空間は、綾乃の呼吸を浅くさせた。まるで、美しいガラスケースに閉じ込められたような息苦しさだった。 しばらくして、鷹司暁が帰宅した。彼は綾乃の前に、一枚の書類を置く。 婚前契約書。 そこには、冷たい活字で条件が並んでいた。互いの私生活には一切干渉しないこと。契約期間は一年間であること。そして、契約満了時、綾乃には慰謝料として巨額の資産が譲渡されること。 綾乃は、その書類を黙って見つめた。指先が、氷のように冷たい。これは取引なのだと、自分に言い聞かせた。彼女はペンを取り、躊躇なく自分の名前をサインする。 「鷹司綾乃」 その文字を、暁は満足そうに見つめていた。彼は、思考する時の癖なのか、指先でテーブルを軽く叩いている。 「その前に――」 暁の声は、静かだった。しかし、その響きには、一切の反論を許さない貫く力が宿っていた。 「まず、私の期待を、はっきりさせておきたい。」 彼は、ソファの背に深く凭れ、ゆっくりと足を組み替えた。その動作は、いやに優雅で、そして、すべてを掌握している者のそれだった。まるで、玉座に鎮座する帝王のように。 「お前は自ら私との結婚を望み、何でもすると誓った。それにより、私はお前の潜在能力に対して、ある程度の見込みを持っている。」 彼の鋭い眼差しが、綾乃をまっすぐに捉える。その瞳は、もはやただの道具を値踏みするようなものではなかった。それは、盤上において、対等に渡り合いうる存在――「棋士」となり得るかどうかを、見極めようとする審眼だった。 「お前は、高瀬翔太という男から、何かを奪い返そうとしているようだ。私怨であれ、ビジネス上の狩りであれ、動機には興味がない。ただ、一つだけ、お前に理解しておいてもらわねばならないことがある。」 彼は、言葉を切った。その間(ま)に、室内の空気が、さらに張り詰める。 「私がお前に資源を投じる前に、確認する必要がある。お前が、ただの――怒りという名の刃に突き動かされただけの、捨て駒ではないということをな。」 その時、綾乃のスマートフォンが震えた。画面には「高瀬翔太」の文字。彼女の瞳が、一瞬で凍りついた。 綾乃は席を立ち、夜景が広がる大きな窓のそばへ移動して、電話に出た。声は、以前の温厚で従順な彼女に戻っていた。 「翔太?どうしたの?」 電話の向こうから、焦燥と苛立ちが混じった翔太の声が聞こえる。 「昨日の夜、なんで電話に出なかったんだ!」 彼は、綾乃を詰るように言った後、命令口調で続けた。 「美咲が足首を捻挫した。明日の『Éclat Bijoux』のジュエリーショーには出られない。お前が代わりに出ろ」 まただ。綾乃の胸の内で、冷たい笑いが込み上げた。彼らはいつもこうだった。自分たちの都合のいい時だけ、彼女を駒のように使う。 だが、今の彼女にとって、それは絶好の機会だった。 綾乃は、声に悲壮感を滲ませ、わざとらしく嗚咽を漏らした。 「わかったわ。事務所のためだもの。私、何でもする」 電話を切った瞬間、彼女の顔から、か弱さは消え失せていた。そこにあったのは、鋼のような決意だけだった。 ソファに座ったまま、暁が彼女の一部始終を観察していた。その口元には、あの値踏みするような笑みが浮かんでいる。 「手伝いが必要か?」 「いいえ。これは、私の戦場ですから」 綾乃は、きっぱりと首を振った。 翌日、綾乃は都内の目立たないカフェで、一人の女性と会っていた。 「恵」 加藤恵。モデル時代から、綾乃が唯一、心から信頼していたアシスタントだ。恵は、やつれた綾乃の姿を見て、痛ましそうにその手を握った。 「綾乃さん、一体何があったんですか……」 綾乃は、翔太と美咲の裏切りを、淡々と語った。全てを聞き終えた恵は、怒りで顔を真っ赤にし、テーブルを叩いた。 「最低です!あの二人、絶対に許せない!」 「落ち着いて、恵」 綾乃は冷静に恵をなだめると、自分の計画を打ち明けた。 「このジュエリーショーを利用するの。恵にお願いがある。美咲の怪我について調べてほしい。十中八九、嘘よ。証拠が欲しいの」 恵は、力強く頷いた。 「任せてください。私、病院で看護師をしている友人がいますから」 恵と別れ、綾乃がペントハウスに戻ると、ウォークインクローゼットの光景に息を呑んだ。そこには、世界的なハイブランドの最新作が、まるでブティックのようにずらりと並べられていた。 井上が、恭しく説明する。 「鷹司様が、奥様のためにご用意された『戦袍』でございます」 綾乃は、その中の一着のドレスにそっと触れた。滑らかなシルクの感触が、指先に複雑な感情を呼び起こす。 その時、恵からメッセージが届いた。 【やりました!美咲は昨日、ジムで高強度のトレーニングをしてました!監視カメラの映像、入手済みです!】 メッセージには、写真が添付されていた。そこに写る美咲の足首には、包帯の一つも巻かれていない。 綾乃の口元に、氷のような笑みが浮かんだ。彼女は、クローゼットに並べられたジュエリーの中から、ひときわ輝くダイヤモンドのネックレスを手に取り、自分の首にかける。 鏡に映る女の瞳は、鋭利な刃物のようだった。 かつての東京ナンバーワンモデルが、今、帰還の準備を整えていた。 綾乃は恵に返信する。 【よくやったわ。情報は、私の合図があるまで伏せておいて】 彼女は振り返り、窓の外に広がる街の灯りを見つめた。明日のショーは、反撃の狼煙を上げる、最初の舞台となる。 夜、暁が帰宅した。彼は、ドレスアップした綾乃の姿を認めると、わずかに目を見張った。彼女が身につけているのは、彼が自ら選んだ「暁の星」と名付けられたネックレスだったからだ。 彼は綾乃の背後に立つと、その耳元で低く囁いた。 「よく似合っている」 綾乃の体が、一瞬、硬直した。だが、彼女は彼から逃げなかった。
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