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『潤くん……外、雷が鳴ってて……停電しちゃって、すごく怖いの……』

静まり返った板張りの廊下に、受話器から漏れ出る優歌代の啜り泣くような甘い声が、やけに明瞭に響いた。

潤平の眉間の険しさはすっかり消え去り、その声音は、香代がこの三年間で一度も向けられたことのない甘美な響きを帯びていた。

「大丈夫だ。部屋から動かずに待っていなさい。すぐに向かう」

通話を切った潤平は、壁に寄りかかって荒い息をつく香代へと、冷淡な視線を投げ下ろした。その瞳には別の女への心配の色が濃く浮かんでいたが、香代の顔に嫉妬の影が微塵もないことに気づき、再び不快そうに眉をひそめた。

「行くぞ。マンションまで送る」

ネクタイを緩めながら吐き捨てると、潤平は香代の返答を待たずに大股で車寄せへと歩き出した。

香代は冷たい壁から身体を離し、震える足でその後を追った。反論する気力すらない。今はただ、あの男の視線が届かない場所へ行き、一人で血を拭いたかった。

雨脚が強まり始めた東京の夜の街を、マイバッハが滑るように走る。

後部座席の端に身を寄せ、香代は窓の外を流れる街灯の光を見つめていた。車内には暖房が強く効いていたが、骨の髄まで染み渡った寒気は一向に引かなかった。

助手席に座る潤平が、バックミラー越しに香代の死人のような横顔を一瞥する。その無言の頑なさが、男の苛立ちを煽っていた。

「優歌代は五年前の火災で重いトラウマを負っている。お前のような図太い女とは違うんだ。余計な真似をして彼女を刺激するなよ」

その一言が、香代の胸を静かに抉った。

(図太い女……?)

五年前のあの夜、崩落する炎の梁をくぐり抜け、煙に巻かれて意識を失ったこの男を引きずり出したのは誰だったのか。

香代は震える指を伸ばし、前髪の生え際に隠された、薄桃色の引き攣れた火傷痕にそっと触れた。今でも雨の降る夜には、この傷が疼くのだ。

だが、もうこの男に真実を叫ぶ気力すら湧かなかった。

「北条社長」

香代は掠れた声で、静かに言葉を紡ぎ出した。

「私は、偽物に構うほど暇ではありません」

急ブレーキの甲高い摩擦音が車内に響き渡り、シートベルトが香代の痛む腹部を激しく圧迫した。

「うっ……!」

胃を鷲掴みにされたような激痛に、香代は身を折った。冷や汗が顎を伝い落ちる。

助手席から振り返った潤平の顔は、殺気立った怒りに歪んでいた。

「松原香代、もう一度言ってみろ!」

「事実を申し上げたまでです」

「黙れ! 優歌代が手首のブレスレットとともに俺を火の中から救い出したことは明白だ! それなのに二年前、お前の父親は『香代が真の恩人だ』と嘘八百を並べて祖父を騙し、恩に着せてこの結婚を強要した! 優歌代から正妻の座を泥棒したくせに、まだ彼女を侮辱する気か!」

潤平の怒号が、狭い車内に叩きつけられた。

香代は男の瞳を見据えた。そこには揺るぎない確信と、香代に対する絶対的な嫌悪しかなかった。

現場に落ちていた手首のブレスレット。それを拾った優歌代の言葉だけを信じ、真実を告げた父と香代を「嘘つきの強盗」と決めつけているこの男。

十二年間の献身、火海から救い出した代償として負った傷、そして今日失った我が子――。

そのすべてが、この男の盲目的な狂信の前には塵芥に等しかった。

(もう、いい……)

心の奥底で、最後の炎が音を立てて消し炭になった。言葉を尽くすことすら、この上ない汚辱に思えた。

「降りろ」

潤平が冷徹に告げた。

運転席の黒田が、困惑したように声を上げた。

「坊ちゃん、しかし外は土砂降りでございます。奥様のお身体も……」

「構わん。降りろと言っているんだ」

香代は何も言わず、震える手でドアレバーを引いた。引き留める言葉を待つ素振りすらなく、躊躇なく豪雨の夜道へと足を踏み出した。

重いドアが開いた瞬間、暴風雨が車内へと吹き込み、氷のような雨粒が香代の全身を打ち据えた。彼女は一度も振り返ることなく、暗闇へと消えていく。

背後でドアが重々しく閉まり、マイバッハのテールランプが赤い残光を引いて、水煙の彼方へと消えていった。

冷たい雨が瞬く間に衣服を濡らし、体温を奪い去っていく。下腹部の激痛が限界に達し、香代は路肩にあるバス停の鉄柱に縋りつくようにして崩れ落ちた。

太腿の内側を、雨水では洗い流せない温かい血が伝い落ちていくのが分かった。

濡れそぼるバッグの中から、震える指先でスマートフォンを取り出す。画面の水滴を拭い、登録名「潤平」のトーク画面を開いた。

「北条潤平様。離婚に合意いたします。合意書はリビングに置いてあります」

送信ボタンをタップした瞬間、端末は完全に沈黙し、黒い画面のまま二度と点灯しなくなった。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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