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第1章
「藤江さん、聞こえますか」 刺すような消毒液の匂いが鼻腔に流れ込み、藤江凛は意識の淵から引きずり上げられた。 重い瞼をこじ開けようとするが、手術室の廊下を照らす無影灯の白い光が目に突き刺さり、思わず顔を背ける。 「……っ」 下腹部の奥深くで、何かを無理やり引き剥がされたような激痛が走り、凛は息を呑んだ。 指先が硬直し、自分の下に敷かれた真っ白なシーツを、骨が浮き出るほど強く握りしめる。 「藤江さん」 主治医の佐藤健太がマスクを外し、血の気のない凛の顔を覗き込んだ。その目には、隠しきれない同情の色が浮かんでいる。 「落ち着いて聞いてください。火災現場で有毒ガスを吸い込み、さらに強打した影響で……」 佐藤は声を潜め、言葉を選んだ。 「妊娠二ヶ月でしたが、赤ちゃんは……助かりませんでした」 凛の瞳孔が、急激に収縮した。 乾ききった唇が微かに震えるが、煙で焼かれた喉からは、ひゅう、という掠れた音しか出てこない。 声にならない叫びが、体内でこだまする。 一粒、熱い涙がこめかみを伝い、枕に落ちた。 ぽつりと落ちた雫は、あっという間に濃い色の染みとなって広がっていく。 看護師が手際よくストレッチャーを押し、がらんとしたVIP病室へと彼女を運び込んだ。 冷たい心電図モニターが、ピッ、ピッ、と単調な電子音を刻んでいる。 静寂な空間で、その無機質な音は、凛の孤独を際限なく増幅させた。 「絶対に安静にしてくださいね」 看護師はそう言い残して部屋を出ていく。 カチャリ、とドアが閉まる音は、外界のあらゆる喧騒から彼女を隔絶した。 腹部が引き裂かれるような痛みに耐えながら、凛は点滴の留置針が刺さったままの右手を、必死に伸ばした。 指先が震え、ベッドサイドのテーブルの上を手探りで彷徨う。 冷たいスマートフォンの感触が指に触れた瞬間、彼女はそれを掴み取った。 画面を点灯させる。 ロック画面には、夫である鷹司暁からの不在着信も、メッセージ通知も、一件もなかった。 凛は奥歯を強く噛み締めた。 震える指で、暁のプライベート用の番号をタップする。 耳に当てたスピーカーから、長くて機械的な呼び出し音が聞こえてくる。 コール音が十回を数えた頃、電話はようやく繋がった。 しかし、聞こえてきたのは、彼の低く落ち着いた声ではなかった。 「もしもし?」 甘ったるく、どこか楽しげな若い女の声。 安藤静だった。 「暁さん、今ちょっと手が離せないみたいなんです、凛お姉様。何かご伝言でしたらお預かりしますよ」 その声に含まれた微かな笑みが、凛の心臓を鷲掴みにした。 スマートフォンを握る指の関節が、血の気を失って白く浮かび上がる。 電話の向こう側から、微かに院内放送が聞こえてきた。 「救急外来よりお知らせいたします……」 同じ病院。 この女も、暁も、今、この建物の中にいる。 凛は喉の奥に込み上げてくる血の味を、無理やり飲み込んだ。 「……なぜ、あなたが彼のプライベートな電話に出るの」 掠れた声で、なんとかそれだけを問い質す。 すると、静の声色は一変した。 「ごめんなさい、凛お姉様……。私、果物を切っていて、うっかり指を切ってしまって……。暁さんが、大したことないのに心配して、無理やり救急外来に連れてきてくださったんです」 わざとらしい、被害者を装う泣き声。 その時だった。 電話の向こうで、暁の不機嫌な低い声が響いた。 「静、手に怪我をしているんだから、スマートフォンをいじるなと言っただろう」 凛の呼吸が、一瞬止まった。 胃が、氷の塊を飲み込んだように冷たく収縮する。 自分は、鷹司グループの未来を担うデータチップを守るために炎の中に飛び込み、お腹の子を失った。 その同じ瞬間、自分の夫は、別の女の、指のささくれのような傷のために付き添っていた。 「あら、でも、凛お姉様から……」 静がわざとらしく暁にスマートフォンを渡す気配がした。 すぐに、彼の冷え切った声が鼓膜を打つ。 「何の用だ。またくだらないことで騒いでいるのか」 凛は、口を開いた。 その言葉は、喉まで出かかった。 だが、声にはならなかった。 代わりに、唇の端から漏れたのは、ひどく乾いた、絶望的な冷笑だった。 「……ふっ」 彼女はもう一言も発さず、赤い通話終了ボタンを押し、スマートフォンをベッドサイドのテーブルに叩きつけるように置いた。 ゴロゴロ……。 窓の外で、空が唸るような雷鳴が轟いた。 次の瞬間、バケツをひっくり返したような大雨が、病室の窓ガラスを激しく打ちつける。 ザアアア、という雨音が、部屋の中の息詰まるような喘ぎをかき消していく。 コンコン、と控えめなノックの音。 佐藤医師が再び入ってきた。 彼の手には、一枚の書類が握られている。 「ご家族のサインが必要なのですが……」 差し出されたのは、「手術同意書及び流産確認書」だった。 凛は、その書類に目を落とす。 配偶者署名欄が、ぽっかりと空白になっている。 その空白が、彼女の瞳の奥にあった最後の温度を、根こそぎ奪い去った。 残ったのは、骨の髄まで凍てつかせるような、絶対零度の氷。 彼女は黙ってペンを受け取ると、迷うことなく『患者本人』の欄に、自分の名前を書き込んだ。 藤江凛。 ペン先が紙を突き破り、カリ、と乾いた音を立てた。 サインを終えた瞬間、凛は衝動的に、左手で右手の甲に刺さったままの点滴針を引き抜いた。 「あっ、藤江さん、何をしてるんですか!」 佐藤医師の悲鳴のような声が響く。 ぷくり、と針穴から血が盛り上がり、真っ白なシーツの上に、鮮やかな赤い点を落とした。 凛は無表情のまま、医療用のコットンで傷口を強く押さえ、ばさりと布団を跳ね除けた。 裸足のまま、冷たい床に降り立つ。 まだ火事の煤で汚れたままのコートを羽織ると、よろめきながらも、背筋だけはまっすぐに伸ばして、病室のドアへと向かった。 「だめです、絶対安静ですよ!」 医師の制止を振り切り、凛はドアノブに手をかける。 そして、重いドアを押し開けた。 長い廊下の、その先。 ちょうど、鷹司暁が自分のコートで安藤静を雨から庇うように抱きしめ、専用エレベーターへと向かう後ろ姿が見えた。 彼は、産婦人科が位置するこの薄暗い廊下の方向には、一瞥もくれなかった。
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