メインコンテンツへスキップ

翌朝。 港区にある鷹司家の豪邸の主寝室に、朝日が大きな窓から差し込んでいた。 鷹司暁は眉間に皺を寄せ、ベッドの上で身じろぎした。 そして、いつもの習慣で、隣に手を伸ばす。 しかし、その手が触れたのは冷たく、誰も寝ていなかったことを示す平らなシーツの感触だけだった。 暁は勢いよく目を開けた。 妻の藤江凛が、昨夜から帰っていない。 チッ、と舌打ちを一つし、彼は苛立ち紛れにベッドから出た。 ウォークインクローゼットに向かうが、いつも凛が完璧にコーディネートして準備してくれているはずのスーツとネクタイが、そこにはなかった。 暁は無造作にダークグレーのスーツを掴み、適当なネクタイを手に取る。 だが、慣れない手つきで結ぼうとしてもうまくいかず、結び目は歪な塊になるだけだった。 彼の忍耐は、朝のこの時点で早くも限界に達していた。 不機嫌な顔で寝室を出ると、廊下の先にある子供部屋から、息子の鷹司輝の甲高い泣き声が聞こえてきて耳に突き刺さる。 執事の小林が、額に汗を浮かべながら子供部屋のドアの前に立ち尽くしていた。 その手には数着の制服が握られているが、どうしていいか分からない様子だ。 「やだ! この服、消毒液みたいな匂いがする! ママがいつも使ってるラベンダーの匂いじゃない!」 輝は小林が差し出す制服を床に叩きつけ、叫んでいる。 暁は大股で近づいた。 「輝! 泣き止まないと、どうなるか分かっているな」 父親の怒気を含んだ低い声に、輝はびくりと体を震わせ、泣き声を懸命に堪え、唇を噛んでしゃくりあげ始めた。 暁は小林の方に向き直る。 「一体どうなっている。夫人はどこに行った。なぜ朝から家中がこの有様なんだ」 「も、申し訳ございません」 小林は震えながら報告した。 「警備室の記録によりますと、奥様は昨夜、病院を出られた後、こちらの屋敷にはお戻りになっておりません。その後の足取りは……」 暁の顎のラインが硬く引き締まった。 彼は冷たく鼻を鳴らす。 家出、か。 自分の気を引くために、随分と陳腐な手段を使うものだ。 彼は長い廊下を歩き、ダイニングルームへと向かった。 主人の席に腰を下ろすと、メイドが淹れたてのブラックコーヒーを差し出す。 一口飲んで、暁は顔を顰めた。 温度が高すぎる。 ガチャン、と音を立ててカップをソーサーに叩きつけるように置いた。 跳ねたコーヒーが、白いテーブルクロスに染みを作る。 「こんな基本的なこともできないのか!」 彼の叱責に、メイドは青ざめて縮こまった。 その時、彼のスマートフォンが鳴った。 秘書の井上からの電話だ。 暁はスピーカーモードにし、自分でネクタイを結び直しながら報告を聞く。 「社長、大変です! 昨夜、我々のAIコア研究所で大規模な火災が発生しました!」 井上の焦った声に、暁の指の動きが止まった。 その眼差しが、瞬時に鋭くなる。 「……コアデータチップはどうなった」 「それが……奥様が火災の中から命懸けでチップを運び出してくださり、データは無事でした。しかし、奥様は負傷され、救急車で……」 凛が、怪我をした。 その言葉に、暁の心臓がほんのわずかに不規則な鼓動を打った。 だが、その動揺はすぐに彼の傲慢さによって押し殺される。 彼は電話に向かって冷笑を浮かべた。 「ふん、なるほどな。どうりで夜も帰らず強気なわけだ。手柄を立てて、それを交渉材料にするつもりか」 ダイニングテーブルの椅子に座っていた輝が、フォークで焼きすぎの目玉焼きを突きながら、不満そうに呟いた。 「ママが作った卵焼きの方が美味しい……」 暁は苛立ちを隠さず眉間を揉んだ。 そして小林に命じる。 「すぐに安藤さんに電話しろ。朝食を一緒に食べるため、こちらに来てくれと伝えろ」 小林は困惑した表情を浮かべた。 「しかし暁様、安藤様はお体が弱いと伺っております。こんな朝早くにご迷惑では……」 暁が冷たい視線を投げかけると、小林はすぐさま口をつぐみ、電話をかけるためその場を離れた。 暁は自分のスマートフォンを手に取り、凛とのメッセージ画面を開く。 最後のやり取りは、昨日凛から送られてきた「傘をお忘れなく」という短いメッセージだった。 彼は入力ウィンドウの上で指を彷徨わせた。 一瞬、メッセージを送って彼女の居場所を問い詰めようかと思った。 だが、彼の強すぎる自尊心がそれを許さなかった。 彼は無言でスマートフォンの画面をロックする。 どうせ今夜にでも、泣きながら謝って帰ってくるに決まっている。 鷹司家以外に、あの女に行き場などないのだから。 ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。 現れたのは、白いワンピースを着用し、完璧なナチュラルメイクを施した安藤静だった。 その姿は病弱で儚げで、人の庇護欲を掻き立てる。 「静おばさま!」 輝はフォークを放り出して駆け寄り、静の足元に抱きついた。 静は優しく輝の頭を撫でる。 しかしその瞳は子供の頭越しに、この広大な屋敷の中をまるで自身の所有物であるかのように、挑発的に見渡していた。 暁は静の穏やかな様子を見て、心の中に渦巻いていた苛立ちが不思議と静まっていくのを感じた。 やはり、藤江凛がいなくても何も問題はない。 彼はその確信を一層強くした。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

続きを読む

章一覧

全120章

  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

新着