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病院の重々しいガラスの自動ドアが、凛の目の前でゆっくりと開いた。 一歩外へ踏み出すと、秋の冷たい雨を含んだ風が、容赦なく吹き付けてくる。 薄い病衣一枚の体は、芯から震えた。 ズキリ、と下腹部に重い痛みが走り、凛は思わずドアの冷たい金属フレームに手をついた。 浅い呼吸を繰り返し、痛みの波が過ぎ去るのを待つ。 どれほどの時間がそうして過ぎたのか、凛には分からなかった。ただ、その間に、鷹司暁の黒いセンチュリーは、とっくに病院を後にしていたのだろう。 その時だった。 一台の黒いトヨタ・センチュリーが、水飛沫を上げながら彼女の目の前を疾走していく。 見慣れた、鷹司家の紋章が入った専用車。 雨に濡れたアスファルトの上で、そのナンバープレートがネオンの光を反射して一瞬光った。 あの車に、鷹司暁と安藤静が乗っている。 凛は傘も差さず、まっすぐに雨の中へと歩き出した。 冷たい雨粒が、あっという間に彼女の長い髪を濡らし、肌を打つ。 だが、その冷たさが、不思議と混乱した頭を冴えさせていくようだった。 手を上げると、一台の空車のタクシーが静かに停車する。 後部座席のドアを開けて乗り込むと、濡れた体から滴り落ちた水滴が、本革のシートに染みを作った。 バックミラー越しに、運転手が訝しげな視線を向けてくる。 「どちらまで?」 「……港区、南青山七丁目」 凛は、母親が遺した古いマンションの住所を告げた。 タクシーは、銀座の華やかな大通りを滑るように進んでいく。 車窓の外では、色とりどりのネオンサインが、降りしきる雨の中で歪んで見えた。 交差点で、車が赤信号でゆっくりと停止する。 止まったのは、ミシュラン三つ星を誇る最高級フランス料理店『ロオジエ』の、大きなガラス窓の真ん前だった。 何気なく、凛は窓の外に視線を向けた。 そして、その動きがぴたりと止まる。 雨でぼやけたガラスの向こう、暖かなシャンデリアの光が降り注ぐ窓際のVIP席。 そこに、鷹司暁が座っていた。 彼の隣には、安藤静。 そして、その向かい側には——凛のたった一人の息子、鷹司輝の姿があった。 凛の呼吸が止まった。輝は、いつも鷹司家の屋敷で暮らしており、凛が彼と会えるのは月に数回、決められた時間だけだった。その輝が、今、自分ではない女と、まるで本当の親子のように笑い合っている。その光景は、凛の胸を深く抉った。 指が、ドアのハンドルを強く、強く握りしめる。爪が、肉に食い込むほどの力で。 彼女の目に映ったのは、五歳になる輝が、満面の笑みで、綺麗に包装された手作りのプレゼントの箱を、安藤静に差し出す光景だった。 静はわざとらしく口元に手を当て、驚きと喜びに満ちた表情を作る。 そして、輝の頬に、ちゅ、と音を立ててキスをした。 その光景を眺める鷹司暁の、いつもは冷たい顔の輪郭が、ふわりと和らいでいる。 彼はポケットから、深い青色のベルベットの小箱を取り出した。 箱が開けられる。 中から現れたのは、眩いばかりに輝くダイヤモンドのネックレスだった。 暁は自ら立ち上がると、静の首の後ろに手を回し、そのネックレスをつけてやる。 凛は、思い出した。 あのネックレスは、先月、タカツカサ・グループが南アフリカのオークションで競り落とした稀代の逸品だ。 てっきり、自分の誕生日プレゼントなのだと、心のどこかで、愚かにも期待していた。 レストランの中の三人は、まるで本当の家族のように、幸せそうに笑い合っている。 雨の降る夜の車道で、たった一人、ずぶ濡れでそれを見つめる凛の世界とは、完全に隔絶されていた。 喉の奥から、生臭いものがせり上がってくる。 凛は衝動的に顔を背け、固く目を閉じた。 涙が、零れ落ちないように、必死で眼球の裏側へと押し戻す。 信号が青に変わる。 タクシーが再び走り出し、あの残酷な光景を後方へと置き去りにした。 凛は、濡れたコートのポケットからスマートフォンを取り出す。 画面には、やはり家族からの連絡は何もない。 ただ一件、システムからの自動通知が、通知センターに表示されていた。 「本日、10月25日はあなたの26歳の誕生日です。お誕生日おめでとうございます」 凛は、その無機質な文字を見つめた。 唇の端が、歪んで吊り上がる。 ああ、そうか。 彼らは、自分の誕生日を祝っているのではなかった。 安藤静が、五年前の事故から退院した記念日を、祝っているのだ。 彼女は連絡先リストを開いた。 「鷹司 暁」 その名前に指を置き、一秒の躊躇もなく、左にスワイプする。 「連絡先を削除」 赤いボタンを、強くタップした。 次に、彼女は隠しフォルダから、別の番号を呼び出す。 東京で最も腕利きの、離婚専門弁護士のプライベート回線だ。 数回のコールの後、電話は繋がった。 「……佐伯先生」 凛の声は掠れていたが、その響きには、これまでにない鋼のような硬質な決意が宿っていた。 「離婚協議書の作成をお願いします。条件は、慰謝料も財産分与も一切不要。私は、鷹司家から一円も要りません。ただし、母が遺した会社、『エターナル・テック』の全株式。それだけは、必ず取り戻します」 深夜の突然の電話に、弁護士は驚いたようだった。 だが、凛の口調に滲む尋常ではない覚悟を感じ取り、すぐに恭しい声で応じた。 「……承知いたしました。明朝一番で、ドラフトをお送りします」 電話を切った後、凛はシートの背もたれに深く体を預け、目を閉じた。 腹部の鈍い痛みが、まだ続いている。 だが、心は、全てが引き裂かれた後の、奇妙なほどの静けさに満たされていた。 タクシーが、古いがセキュリティの厳重なマンションの前で停まる。 凛はドアを開け、一度も振り返ることなく、夜の闇の中へとその身を消した。

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章一覧

全120章

  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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