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第3章 完全なる退去と12時間の猶予

凛はラウンジを出ると、すぐに親友であり敏腕弁護士である三上結優(みかみ ゆゆう)に電話をかけた。

手短に事情を説明し、そのままタクシーを拾って、白金台にある幸太の高級マンションへと向かった。

幸太がまだ戻っていないことを確認し、玄関の扉を開ける。

これまで心を込めて整えてきた温もりのあるリビングを見渡しても、彼女の胸の奥には、もはや一片の未練すら湧いてこなかった。

広々としたメゾネットタイプの部屋には、幸太の高価なブランド品が溢れかえっている。

しかし、二階の寝室にある凛の私物といえば、数着の安価な普段着と、少しのスキンケア用品。

そして、何よりも重たい分厚い医学書の山だけだった。

凛はクローゼットの奥から古いスーツケースを引き出した。

幸太が世間体のために買い与えたオートクチュールのドレスや高価な宝石には目もくれず、自分の私物だけを淡々と詰め込んでいく。

わずか一時間ほどで、バスルームの歯ブラシからキッチンのエプロンに至るまで、自身の痕跡をことごとく消し去った。

部屋を、自分が越してくる前の無機質な状態へと完全に戻す。

最後に、マンションの合鍵と、これまで一度も使ったことのない限度額なしの家族カードを取り出した。

それらを玄関のシューズボックスの上に、寸分の狂いもなく並べて置く。

これで、この部屋と今泉家との繋がりは、完全に断ち切られた。

重い医学書の束を抱えてエントランスを出ると、ちょうど結優の白いポルシェが滑り込んできたところだった。

運転席から降りてきた結優は、凛の足元に積まれた大荷物を見て目を丸くした。

「ちょっと、凛。今回は半年くらい幸太と冷戦でもする気?」

凛はトランクへ医学書を積み込みながら、一切の迷いがない声で答えた。

「冷戦じゃないわ。彼とは完全に別れるって決めたの」

凛の忍耐強い性格を誰よりも知る結優は、彼女がここまで言い切るなら絶対に覆らないと悟った。

結優は力強く頷き、両手を広げた。

「大賛成!あんなクズ、こっちから願い下げよ。私のマンション、好きなだけ使っていいからね!」

——

翌朝。

白金台のマンションでは、幸太がけたたましく鳴るアラームに叩き起こされていた。

昨夜はしこたま酒を飲んだせいで、体が鉛のように重く、頭痛がひどい。

だが、今朝はどうしても外せない重要な会議があった。

幸太は不機嫌にベッドから抜け出し、ウォークインクローゼットへと向かった。

扉を開けると、一番手前のラックに、今日のスケジュールに合わせた完璧なスーツとネクタイのセットが二着、綺麗に掛けられていた。

凛が用意したものだ。

幸太はファッションに無頓着で、これまでずっと凛が彼の予定に合わせて服をコーディネートしてきたのだ。

その見慣れた光景に、幸太は鼻で笑った。

(なんだ、昨日あんなに偉そうに別れると言っておきながら、結局戻ってきて俺の服を用意してるじゃないか)

(所詮は家政婦の娘。意気地がない女だ)

幸太は、自分がどれだけ遊び歩いても、最終的に結婚して家に置くのは凛のような従順な女だと決めていた。

着替えを済ませた幸太は、自信たっぷりに一階のダイニングへと下りた。

「幸太様、朝食の準備ができております」

キッチンから顔を出したのは、通いの家政婦である芳江だった。

「芳江か?」幸太は不快げに眉をひそめた。「凛はどこだ?」

四年前から、凛が夜勤でない限り、幸太の朝食は必ず彼女が作っていた。

甘やかされて育った幸太は味覚がうるさく、凛だけが彼の複雑な好みを完璧に把握していたからだ。

芳江はおどおどと視線を泳がせた。

「あの……昨夜遅くに、凛様からメッセージをいただきまして」

「今後はもうこちらには住まわれないので、私に毎朝の朝食の支度をするようにと……」

幸太の顔から、一気に血の気が引いた。

彼は足早に玄関へ向かい、シューズボックスの上に合鍵とブラックカードが整然と並べられているのを目にした。

幸太の顔が、陰鬱な怒りでどす黒く染まる。

(本気で俺と別れる気だと?あの家政婦の娘が、今泉家の金と庇護なしで生きていけるわけがない!)

(どうせ俺の気を引いて、奈々を追い出させるための浅はかな駆け引きに決まっている!)

幸太は左腕の高級時計に目をやった。

現在、午前八時三十七分。

彼はスマートフォンを取り出し、凛のトーク画面を開いて、傲慢な指つきでメッセージを打ち込んだ。

『大滝凛、十二時間だけ猶予をやる』

『今夜の午後八時半までにここへ戻って土下座しろ。そうすれば、昨夜の無礼は水に流してやる』

送信ボタンを乱暴に押すと、幸太は芳江を振り返り、冷酷に言い放った。

「一階のゲストルームを片付けておけ。今日から奈々をここに住まわせる」

十二時間も経たないうちに、あの女は泣きながら許しを請いに戻ってくるに違いない。

幸太はそう、微塵も疑っていなかった。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全10章

  1. 第1章第1章 嘘と決別の婚約破棄
  2. 第2章第2章 化粧室の黒き支配者
  3. 第3章第3章 完全なる退去と12時間の猶予

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