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第1章 捨てられたシンデレラ婚約パーティーは画面の中
白い天井が、ぼやけた視界の中でゆっくりと焦点を結んでいく。 鼻をつく消毒液の匂いが、自分がどこにいるのかを無慈悲に告げていた。内山凛々紗は、右足首に巻かれた分厚い包帯とそこから伝わる鈍い痛みに、これが現実なのだと思い知らされる。 「気分はどうですか、内山さん」 部屋に入ってきた看護師が、手際よくバイタルをチェックしながら優しい声で尋ねてきた。その「内山」という響きに、凛々紗の胸がチクリと痛む。桜庭家で暮らして六年。それでも自分は、桜庭の人間ではないのだ。 「大丈夫です」 力なく微笑んでみせるものの、視線は何度も枕元のスマートフォンへと引き寄せられる。三日前の事故でここに運び込まれて以来、画面は一度も光っていない。 「恋人さん、まだいらっしゃらないの?」 看護師の無邪気な言葉が、心臓を細い針で刺すようだった。胸がきゅうっと締め付けられる。 「仕事が、すごく忙しい人なので」 まるで自分に言い聞かせるように、健太を庇う言葉を口にした。桜庭グループの次期当主である彼が、秘密の恋人である自分にだけ見せる優しい笑顔、温かい言葉。それだけが、息の詰まるようなあの家で、彼女が自分を保つための唯一の支えだった。 「でも、お怪我をされたんですものねぇ」 同情的な視線を残し、看護師は部屋を出て行った。 一人きりになった病室で、凛々紗はスマートフォンのロックを解除した。 健太からの着信もメッセージも、一件も届いていない。 不安が冷たい霧のように胸に広がる。だけど、彼に限ってそんなはずはない。きっと何か理由があるはずだ――そう自分に言い聞かせ、気を紛らわすようにテレビのリモコンへ手を伸ばした。 電源を入れた途端、画面に映し出された光景に凛々紗は息をのんだ。 きらびやかなホテルの宴会場。シャンデリアの眩い光を浴びて、見慣れた恋人が立っている。 画面の下を流れるテロップが、残酷な現実を突きつけてきた。 「桜庭グループ御曹司・桜庭健太氏、深町グループ令嬢と婚約発表」 胃がぐっと収縮する。画面の中の健太は、純白のドレスを着た見知らぬ美女の隣で、完璧な笑みを浮かべていた。その女性は、深町綾乃。凛々紗も名前だけは知っている。健太からは「ビジネス上の付き合い」の相手だと、そう聞かされていたはずだった。 「長年の愛を実らせての婚約」 アナウンサーの甘い声が追い打ちをかける。凛々紗の知らない「長年の愛」という言葉が、胸を鋭くえぐった。 手からリモコンが滑り落ち、床に乾いた音を立てて転がる。全身から血の気が引いていくのがわかった。 ちょうどそのとき、病室のドアが勢いよく開いた。 「凛々紗!」 叫び声とともに、親友の上田麻里乃が燃えるような赤いドレス姿で駆け込んできた。派手な出で立ちと血相を変えた表情は、静かな病室の中であまりにも異質だった。 麻里乃はテレビ画面をちらりと見るなり、すぐに状況を察したようだった。床のリモコンを拾い上げ、乱暴にテレビの電源を切った。 「あのクズ男……!」 麻里乃は悔しそうに歯ぎしりし、青ざめた凛々紗の顔を見て声を荒らげた。 「ニュース見たわよ! あんたが入院してるっていうのに、何なのあれ?!」 麻里乃の激しい怒りの声が、凛々紗の言葉にならない感情を代弁しているようだった。 声が出ない。ただ親友の顔を見つめることしかできなかった。裏切られたという事実を、まだ脳が処理しきれずにいる。 「立てる? 退院手続きは済ませてきた。こんな所に一人でいさせられないわ」 麻里乃が、氷のように冷たくなった凛々紗の手を強く握りしめた。その温もりに、ようやく現実感が戻ってくる。 麻里乃に支えられ、凛々紗はゆっくりとベッドから起き上がった。足首に走る鋭い痛みが、胸の痛みと共鳴して全身を苛む。 「桜庭の跡取りだかなんだか知らないけど、人として最低よ!」 凛々紗のわずかな荷物を手早くまとめながら、麻里乃は健太への怒りをぶちまける。その声を聞きながら、凛々紗はぼんやりと窓の外を見ていた。今まで信じてきた世界が、音を立てて崩れていく。 それでも、手の中のスマートフォンを強く握りしめていた。健太を信じたい。けれど、画面に映っていた光景は紛れもない現実だった。 「さあ、行きましょう。あんな男のいる家に帰る必要なんてないわ。うちに来なさい」 麻里乃がそっと肩を抱く。 だが、凛々紗は小さく首を振った。 「ううん……帰る。確かめなきゃいけないことがあるから」 伏せられていた瞳に、かすかな光が宿る。 麻里乃はその決意を秘めた表情を見て一瞬言葉に詰まったが、やがて力強くうなずいた。 「わかった。なら私が送っていく。一人にはさせない」 病室を出ると、凛々紗は松葉杖をつき、痛む足を引きずりながら一歩一歩進んだ。その足取りは、これから始まる現実と向き合うための第一歩だった。 病院の廊下は長く、静まり返っている。心の中にあった健太への淡い期待は、あの映像によって粉々に砕かれていた。 麻里乃の運転する派手なスポーツカーに乗り込む。車が病院を離れる瞬間、凛々紗はもう振り返らなかった。裏切りの現場である桜庭家へ向かうことを、自らの意思で決意したのだ。 一体何を確かめようとしているのか、自分でもまだよくわかってはいなかったけれど。
章一覧
全69章
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