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第3章 愛人契約と決別の平手打ち

家政婦が心配そうに「お嬢様、お部屋までお送りしましょうか?」と尋ねるが、凛々紗の耳には届かない。彼女は虚空を見つめたまま、微動だにしなかった。 脳裏で、健太の「いい思い出だった」という言葉と、綾乃に向けられた笑顔が繰り返し再生される。 絶望の底から、ゆっくりと、けれど確実に熱いものが湧き上がってきた。怒りだった。 凛々紗は壁から手を離し、リビングのドアに向かって松葉杖を引きずりながら一歩を踏み出した。 「お嬢様!」 家政婦が止めようと駆け寄るが、凛々紗の鬼気迫る表情に気圧され、それ以上は声が出ない。 凛々紗はためらうことなく、リビングのドアを乱暴に開け放った。 中では健太と綾乃がソファに寄り添うように座り、親密そうに囁き合っていた。 二人の視線が一斉に凛々紗へ向けられる。綾乃は驚きと軽蔑の混じった表情を浮かべ、健太は心底迷惑そうに眉をひそめた。 「話は、まだ終わってない」 凛々紗は松葉杖をつき、まっすぐに健太の前へと進み出た。 健太は立ち上がると、低い声で威圧するように言った。 「何だ、まだ何かあるのか。綾乃の前だぞ、見苦しい真似はやめろ」 「まあ、健太さん。この方が例の居候の……」 綾乃がわざとらしく口にし、扇子で口元を隠してくすくすと笑う。その挑発が、凛々紗の怒りに油を注いだ。 凛々紗は綾乃を一瞥もせず、健太だけを見据える。 「どうして私じゃダメだったの? 家のためなら、私を捨てるのは当然だって言うの?」 真っ向からの問いに、健太は一瞬言葉に詰まった。その瞳にほんのわずかな罪悪感がよぎるが、すぐに冷徹な仮面の下へと隠される。 「そうだ。桜庭家の次期当主として、僕は深町家との繋がりを選んだ。お前には理解できないかもしれないが、これが僕の責任だ」 「責任?」 凛々紗は乾いた笑いを漏らした。 「私との六年間は、あなたの責任の中には入っていなかったのね」 その言葉に、健太の表情がかすかに揺らぐ。隣で綾乃が不安そうに健太の腕へと手を添えた。 健太は一つ咳払いをすると、信じがたい言葉を口にした。 「だが、僕はお前を完全に手放すつもりはない」 「え?」 凛々紗と綾乃の声が重なった。 健太は凛々紗に一歩近づき、声を潜めて囁いた。 「結婚はする。だが、お前との関係を続けることはできる。今まで通り、僕のそばにいればいい。誰にも知られずに、お前を愛してやる」 愛人になれと、彼はそう言ったのだ。 その瞬間、凛々紗の中で何かがぷつりと切れた。 侮辱、傲慢、身勝手極まる独善――すべてが沸点に達した。 パァン! 乾いた破裂音が、静まり返ったリビングに響き渡る。 凛々紗の右手が、健太の左頬を思い切り打ち据えていた。彼女からの、初めての反撃だった。 健太は打たれた頬を押さえ、信じられないといった目で凛々紗を見つめる。 「お前……僕を殴ったのか?」 「きゃあ! なんて女なの!」 綾乃が金切り声を上げた。 凛々紗の手は、殴った衝撃でじんじんと痺れている。だが、不思議なほど心は冷え切っていた。 「ふざけないで」 凛々紗は健太を射抜くように睨みつける。 「私を誰だと思っているの? あなたの都合のいい人形じゃない。選びなさいよ。今ここで、私かその女か」 最後通牒だった。答えなど、とうに分かっている。それでも、これを突きつけなければ自分自身の誇りが許さなかった。 健太の顔から表情が消えた。彼はゆっくりと凛々紗から視線を外すと、怯える綾乃の肩を見せつけるように抱き寄せた。 「答えは、もう決まっているだろう」 その仕草が、何よりも雄弁な答えだった。 凛々紗の全身から、すうっと熱が引いていく。けれど、涙は一滴もこぼれなかった。最後の未練が完全に断ち切られた瞬間だった。 「そう」 凛々紗は短く告げると、健太に背を向けた。 「もう二度と、あなたの思い通りにはならない」 松葉杖をつき、リビングの出口へと向かう。その背中は、傷つきながらも決して折れることのない気高さをまとっていた。 健太は赤く腫れ上がった頬の熱を感じながら、去っていく凛々紗の後ろ姿を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。

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読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全69章

  1. 第1章第1章 捨てられたシンデレラ婚約パーティーは画面の中
  2. 第2章第2章 冷たい香水砕け散った最後の欠片
  3. 第3章第3章 愛人契約と決別の平手打ち

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