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第2章 冷たい香水砕け散った最後の欠片
麻里乃の運転する車が、都心の道を疾走する。車内の空気は、まるで鉛のように重かった。麻里乃は何度も心配そうに、凛々紗の横顔を窺っている。 「本当に大丈夫? あいつの顔なんて見たら、あんたが傷つくだけよ」 麻里乃がもう一度説得を試みる。 凛々紗は窓の外を流れる景色を見つめたまま、静かに答えた。 「大丈夫。自分の目で見て、自分の耳で聞かないと、前に進めないから」 その声に震えはなかった。 麻里乃はそれ以上何も言わず、アクセルを強く踏み込んだ。やがて見慣れた桜庭家の壮麗な門構えが見えてくる。この豪奢な屋敷が、凛々紗にとっては美しい鳥籠でしかなかったことを麻里乃は知っていた。 車が門をくぐり、長い私道を進む。玄関前には、見慣れない黒塗りの高級車が停まっていた。深町家の家紋が、夕日を浴びて鈍く光っている。 凛々紗の心臓が、どきりと跳ねた。綾乃が、まだいる。 「ここで待ってる。何かあったらすぐに叫びなさい。飛び込んでやるから」 車を停めた麻里乃が、力強い声で告げる。 凛々紗は「ありがとう」と微かに微笑み、松葉杖を頼りに車を降りた。目の前にそびえる重厚な玄関ドアが、まるで怪物の口のように彼女を待ち構えている。 ドアノブに手をかけようとした、その瞬間――。 内側からドアが開いた。そこに立っていたのは、上質なスーツを完璧に着こなした桜庭健太だった。 ふたりの視線が交わる。健太は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに氷のような無表情に戻った。 「……帰ってたのか」 その声は道端で知人に会ったかのように平坦で、何の感情も含まれていなかった。 凛々紗は言葉を失う。彼が最初にかける言葉が、それなのか。心配も、謝罪も、何一つない。 健太の視線が、凛々紗の足元の松葉杖に落ちる。 「足、まだ治らないのか」 まるで他人事のような口調に、凛々紗の背筋が冷たく凍りついた。その冷淡な態度が、ふたりの関係が変わってしまったことを何よりも雄弁に物語っていた。 「健太さんこそ……お忙しいようでしたね。テレビで拝見しました」 凛々紗は精一杯の皮肉を込めて言った。声が震えてしまわないよう、唇をきつく噛みしめる。 健太は眉一つ動かさない。 「ああ、見たのか。話が早くて助かる」 彼はあっさりと認め、凛々紗の横を通り過ぎようとする。 その瞬間だった。ふわりと、凛々紗の知らない香りが鼻をかすめた。甘く華やかで、高価な香水の香り。綾乃のものだと直感した。 残されていた最後の希望が、その匂いとともに、音を立てて砕け散っていく。 「待って。説明して」 凛々紗は、ほとんど無意識に健太の腕を掴んでいた。 健太は迷惑そうに眉を寄せ、彼女の手を乱暴に振り払う。 「説明? 見た通りのことだ。僕は綾乃と婚約した」 その冷酷な一言が、凛々紗の胸に深々と突き刺さる。 「どうして……」 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。 健太は深いため息をつき、まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるように口を開いた。 「お前ももう子供じゃないんだから、分かるだろ。これは桜庭家にとって必要なことなんだ」 彼の口から語られる「家の利益」という言葉が、ひどく空虚に響く。 凛々紗は健太の顔を見上げた。そこにかつて自分に向けられていた優しさの面影は、どこにもない。ただ冷徹な合理主義者の顔があるだけだった。 「健太さん、どちらにいらっしゃるの?」 玄関の奥から、甲高い女の声が聞こえてくる。深町綾乃の声だ。 健太は「すぐ行く」と応じ、再び凛々紗に背を向けた。 「話は終わりだ。僕は忙しい」 遠ざかるその背中に、凛々紗は最後の問いを投げかけた。 「私たちの時間は……あなたにとって何だったの?」 健太は足を止め、振り返りもせずに吐き捨てるように答えた。 「いい思い出だったよ」 その言葉には、一片の感傷も含まれていなかった。 凛々紗はその場に立ち尽くす。足の痛みすら忘れ、ただ遠ざかっていく、かつての恋人の背中を見つめていた。 「お嬢様、お戻りでしたか」 気まずそうに声をかけてきた家政婦の存在にも、凛々紗は気づかない。彼女の視界には、健太がリビングのドアを開け、中にいる綾乃へと優しい笑みを向ける光景だけが焼きついていた。 それは、かつて自分だけに向けられていたはずの笑顔だった。 ぐらりと世界が揺れる。凛々紗はふらつき、思わず壁に手をついた。心臓が冷たい石の塊になってしまったかのように、重く、深く沈んでいく。 健太はリビングへと入り、ドアを閉めた。その重い扉は、凛々紗の世界と健太の世界を完全に隔てる壁のように立ちはだかっていた。
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