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チャプター 3 第3章

―― 小野田琴 ――

トイレの個室に閉じこもり、私は呼吸を整えた。

鏡に映る自分の顔は、青白く、血の気が引いていた。

吐き気は収まったが、胸の奥には、鉛のような重い塊が残っていた。

宏明がドアを叩いた。

「琴、大丈夫か?何があったんだ?」

彼の声は、心配と焦燥が入り混じっていた。

私には、演技にしか聞こえなかった。

「心配ないわ。大丈夫よ」

私は声を絞り出して言った。

家路に着く車の中で、私の頭は驚くほど冴え渡っていた。

感情は完全に沈黙し、思考だけが高速で回転していた。

私はこれから、完全に姿を消す。そのために、まず必要なのは資金だ。幸い、長年の結婚生活で、私個人の名義で貯めてきた貯蓄と、宏明が私名義で開設した口座の預金がある。総額は数千万に上る。今日中に、綾乃に紹介してもらった海外の信託口座に、全額を移す手続きを進めよう。

「琴、本当に大丈夫なのか?顔色がまだ悪いぞ」

宏明が言った。

「ええ、もうすっかり良くなったわ。さっきの吐き気も、きっと一過性のものよ」

私は平然と答えた。

「そうか。良かった。ところで、サプライズなんだが……」

宏明は私の顔色を伺うように言った。

「今日はもう遅いから。明日にしましょう。明日は、私と一緒に一日中、家にいてほしいの」

私は彼の言葉を遮った。

彼の顔に、一瞬焦りの色が浮かんだ。

「明日か……しかし、明日はどうしても外せない会議が……」

彼は言い訳を始めた。

「私はあなたと一日中一緒にいたいの。ずっと家で」

私は彼の目を見つめて言った。

甘えたような口調で。

「しかし、宏明様、秘書の杏梨が明日、重要な会議の準備を……」

彼のスマートフォンから、杏梨の声が聞こえてきた。

彼は慌てて電話を切った。

「誰なの、今の?」

私は冷たい目で彼を見た。

「いや、なんでもない。ただの迷惑電話だ」

彼は嘘をついた。

彼の顔は、すでに青ざめていた。

「宏明、私を愛しているでしょ?だったら、明日は私と一緒にいて」

私は微笑んだ。

彼は私の笑顔の裏に隠された意味を理解できなかった。

「わかった。明日、会議はキャンセルする。君のために」

彼は観念したように言った。

「ありがとう、宏明。愛してるわ」

私はそう言って、彼の頬にキスした。

彼の体は、まるで石のように硬直していた。

その夜、宏明がぐっすり眠りについたのを確認すると、私は静かにベッドを抜け出した。

私は彼の書斎へと向かった。

書斎の電気をつけ、彼のデスクに置かれたラップトップを開いた。

彼のパスワードは知っていた。

私は彼の会社のサーバーにアクセスし、杏梨の個人ファイルを開いた。

そこには、私が想像していた以上の情報が詰まっていた。

彼女が宏明に送った、私を侮辱するようなメッセージの数々。

二人の情事のビデオ。

そして、杏梨が宏明の子どもを妊娠したことを彼に告げるメッセージ。

その全てが、詳細に記録されていた。

画面に映し出される二人の姿。

私は思わず目を閉じた。

口元を抑える。

彼らの身体が触れ合う音。

杏梨の嬌声。

宏明の喘ぎ声。

それらが、耳の奥にこびりついて離れない。

私は、この男と一体、何年間もベッドを共にしていたのだろう。

ゆっくりと目を開ける。

画面に映る二人の愚かな姿を、冷静に見つめた。

もう、涙は出なかった。

感情は、完全に枯れ果てていた。

私は全てのデータを、隠しファイルにコピーした。

さらに、綾乃の指示に従い、彼の会社の経費精算システムにアクセスした。そして、宏明が杏梨に贈った高級品の領収書を、全て「社内交際費」として処理していた痕跡を発見し、そのデータも保存した。これは横領の証拠になり得る。いざという時の、強力な武器だ。

そして、彼のラップトップを元の状態に戻した。

静かに書斎を出て、寝室に戻った。

宏明はまだ、安らかに眠っていた。

彼の寝顔を見て、私はゾッとした。

この男は、私を裏切りながら、こんなにも穏やかに眠れるのか。

朝になった。

宏明のスマートフォンが、けたたましい音を立てていた。

彼は不機嫌そうな顔で目を覚まし、電話を取った。

「んん……何だ、朝早くから……」

彼の声は、まだ眠気が残っていた。

電話の向こうからは、杏梨の声が聞こえた。

「宏明様……なぜ、会議に来てくださらないんですか?私、一人でどうすれば……」

彼女の声は、泣き出しそうだった。

「ああ、杏梨か。悪い。今日は妻とゆっくり過ごすことになったんだ。会議は君に任せる。大丈夫だ、君ならできる」

宏明は優しく言った。

その声は、私に見せる声よりも、さらに甘かった。

「でも……私、お腹が痛くて……」

杏梨の声は、さらにか細くなった。

宏明は顔を顰め、私をちらりと見た。

「わかった。君がどうしてもと言うなら、少しだけ顔を出すよう調整してみる。大丈夫だ、心配するな」

彼はそう言って、電話を切った。

「誰だったの?」

私は起き上がり、宏明に尋ねた。

「ああ、会社からだ。急なトラブルで、どうしても私が行かなければならないらしい」

彼はしどろもどろに答えた。

「そう。大変ね」

私は微笑んで言った。

「ああ。しかし、今日は君と一日中一緒にいると約束したからな。朝食を準備してくるよ。君の好きなオムレツを作ろう」

宏明はそう言って、寝室を出て行った。

彼はすぐに、豪華な朝食を運んできた。

テーブルには、私の好きなオムレツ、焼き立てのパン、フレッシュなフルーツ、そして淹れたてのコーヒーが並んでいた。

「琴、君はいつも私のために料理を作ってくれるからな。たまには私が作らなければと思ってね」

宏明は得意げな顔で言った。

そして、私の手を握った。

「そういえば、琴。最近、家事が大変そうだから、お手伝いさんを雇おうと思うんだ。君も少しは楽になるだろう?」

彼の言葉に、私は眉を顰めた。

お手伝いさん。

それは、私がこの家からいなくなる日を、彼がすでに想定しているかのようだった。

「いいえ、結構よ。家事は私の仕事だもの」

私はきっぱりと断った。

私は箸を取り、オムレツを口に運んだ。

しかし、喉を通らなかった。

吐き気が込み上げてくる。

「琴、本当にどうしたんだ?食欲がないようだが」

宏明は心配そうに言った。

「宏明、私たち、もしかして何かあったの?」

私は突然、尋ねた。

彼の顔に、一瞬緊張の色が走った。

「どういうことだ?琴。私たちは何も変わっていないだろう」

彼は動揺した声で言った。

「そう。良かったわ」

私は微笑んで言った。

彼は私の言葉に、少し安堵したようだった。

「もちろんだ。琴、君は私の人生の全てだ。私は君を、誰よりも愛している」

彼はそう言って、私の手を握りしめた。

その手は、まだ杏梨の香水の匂いが残っていた。

「私は君に一途だ。永遠に」

彼の言葉は、私の心を全く響かせなかった。

私は心の中で、彼の言葉を嘲笑った。

一途?

永遠?

彼は、私をどこまで愚弄するつもりなのだろう。

私は彼の腕から手を引き抜いた。

そして、ベッドから降り、服を着始めた。

宏明は、私が会話を終わらせたことに安堵したかのように見えた。

「琴、ところで、君の誕生日プレゼントは、まだだったな」

彼は突然、思い出したように言った。

彼の顔には、焦りの色が浮かんでいた。

「あら、そうだったかしら?何がもらえるのかしら?」

私は微笑んで言った。

彼の顔は、さらに青ざめた。

「ああ……その……とっておきのものを、今から買いに行こうか?」

彼はしどろもどろに言った。

「いいえ。あなたは、もう私に何も贈る必要はないわ」

私はきっぱりと言った。

彼は、私の言葉の意味を理解できなかった。

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現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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全21章

  1. 第1章チャプター 1 第1章
  2. 第2章チャプター 2 第2章
  3. 第3章チャプター 3 第3章

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