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チャプター 2 第2章
―― 小野田琴 ――
「琴、本当にどうしたんだ?元気がないように見えるが」
翌朝、朝食の席で宏明は私に尋ねた。
彼の声には、僅かな心配の色が混じっていた。
「少し寝不足なだけよ。最近、夢見が悪くて」
私はすぐに偽りの言葉を返した。
彼を安心させるためではなかった。
ただ、彼に真実を知られるわけにはいかなかった。
彼は私の手を握ろうとした。
その瞬間、私の体は本能的に硬直した。
彼の指先が触れる前に、私はそっと手を引いた。
宏明は少し戸惑った様子で、顔を曇らせた。
「そうか。無理もない。最近、君との時間があまり取れていなかったからな。今週末は二人でゆっくり過ごそう。どこか旅行にでも行こうか?」
彼の提案は、耳障りだった。
まるで、私の機嫌を取ろうとするかのような、計算された提案に聞こえた。
「ええ、そうね。どこか行きたいわ」
私は作り笑顔で答えた。
「じゃあ、君の好きな場所を予約しておこう。実は、君にサプライズを考えているんだ」
宏明はそう言って、得意げな表情を見せた。
サプライズ。
彼が私にサプライズをする時、それはいつも彼の都合の良い時だった。
「あら、私もあなたにサプライズを用意しているのよ」
私は意味深に言った。
彼は私の言葉に、嬉しそうに目を輝かせた。
「ほう?それは楽しみだな。君からのサプライズはいつも最高だからな」
彼は心底嬉しそうだった。
彼が私に最後にサプライズをしてくれたのは、いつだっただろう。
私の誕生日は、もう半年以上前に終わっていた。
彼は私の誕生日を、いつも忘れていた。
「ええ、きっと驚くわ」
私は彼の目を見つめて言った。
彼はその言葉の裏に隠された意味に気づかず、ただ嬉しそうに頷いた。
宏明は突然身を乗り出し、私の唇にキスしようとした。
私は反射的に顔を背けた。
彼の唇が、私の頬に触れた。
「琴?」
彼は怪訝な顔で私を見た。
その表情には、ほんの少し傷ついたような色が混じっていた。
「ごめんなさい。ちょっと、頭が痛くて」
私はまた嘘をついた。
彼は何も言わず、ただ私を見つめた。
その視線が、胸の奥を締め付ける。
夜、私はベッドの中で目を覚ました。
隣で眠る宏明の寝息が聞こえる。
彼がそこにいるという事実が、私を窒息させそうだった。
この男は、もう私にとって死んだも同然だ。
彼の存在は、私を蝕む毒でしかなかった。
週末のデートは、宏明が選んだ高級レストランだった。
かつて、彼が私にプロポーズした思い出の場所だ。
彼は私を迎えに来ると、私のために車のドアを開けた。
彼の顔には、どこか気負ったような、ぎこちない笑顔が浮かんでいた。
「今日は、とっておきの場所を予約したんだ。きっと君も気に入るよ」
車を走らせながら、彼は自分の仕事の話ばかりしていた。
新しいプロジェクトがどれだけ成功しそうか、どれだけ多くの敵を打ち破ってきたか。
彼の話は、いつものように自慢話に終始した。
私はただ、相槌を打つふりをした。
私の心は、すでに彼の言葉から離れていた。
ふと、助手席の足元に、口紅のついたティッシュが落ちているのが見えた。
派手な赤色の口紅。
杏梨がよく使っている色だ。
私は何も言わず、ただそのティッシュをじっと見つめた。
レストランに着くと、店のドアマンが宏明に深々と頭を下げた。
「鈴木社長、いつもありがとうございます。奥様もお美しくいらっしゃいますね」
宏明は得意げに笑い、ドアマンにチップを渡した。
店内の客たちも、私たちに視線を向けた。
彼らは「愛妻家の鈴木社長だ」と囁き合った。
席に着くと、宏明のスマートフォンが鳴った。
彼は画面を見て、少し顔色を変えた。
「悪い、琴。急な仕事の電話だ。少し席を外すよ」
彼はそう言って、席を立った。
「ええ、いってらっしゃい」
私は微笑んで言った。
彼が電話を終えるのを待つ必要はない。
彼の電話の相手は、私がよく知っている女だからだ。
「すぐに戻るから、ここで待っていてくれ」
彼はそう言って、私の頬にキスしようとした。
私はまたしても、わずかに顔を背けた。
彼の唇は、私の髪に触れただけだった。
周りの客たちが、「鈴木社長は本当に奥様を大事にされている」と囁き合う声が聞こえた。
私は心の中で嘲笑した。
彼らは何も知らない。
宏明がテラス席へと消えていくのを確認すると、私は静かに席を立った。
私は、彼の車へと戻った。
助手席に座り、座席の下を探った。
すぐに、隠されたスマートフォンを見つけた。
彼のプライベート用だ。
ロックはかかっていなかった。
画面には、杏梨からのLINEメッセージがびっしりと並んでいた。
「宏明様、今夜は奥様と?寂しいです」
「早く会いたいです、赤ちゃんも宏明様に会いたがっています」
私が思っていたよりも、彼女は大胆だった。
下品な裸の写真も送られていた。
胃の奥から、酸っぱいものが込み上げてくる。
私は素早く、全てのメッセージのスクリーンショットを撮り、自分の端末に転送した。そして、証拠保全のために、綾乃の事務所のクラウドサーバーにもアップロードした。
これは、ただの不倫の証拠ではない。杏梨が執拗に私を精神的に追い詰めていた証拠だ。宏明への慰謝料請求ではなく、別の場面で、必ず役に立つ。
その時、車のドアが開いた。
宏明が戻ってきたのだ。
彼は、私の手の中にあるスマートフォンを見て、顔色を失った。
「琴……これは」
彼の声は震えていた。
私はゆっくりとスマートフォンを閉じ、彼の顔を見上げた。
彼の顔は青ざめていた。
「どうしたの?宏明。そんなに青い顔をして」
私は優しく言った。
「いや、なんでもない。仕事の電話が長引いてしまってね。もう大丈夫だ」
彼は必死に笑顔を作ろうとした。
その笑顔は、ひどく醜かった。
「そう。大変だったわね」
私は彼の言葉を遮るように言った。
彼は私をじっと見つめた。
「琴、本当にどうしたんだ?気分が悪いのか?」
彼は心配そうな顔で私の額に触れた。
「ええ、少し。このお店の料理は、昔ほど美味しくないわね」
私はそう言って、彼の手を振り払った。
彼は私の言葉に、少し不満そうな顔をした。
「そうか?私は美味しいと思ったが……君の気分が悪いなら、今すぐ店を出よう。二度と来るものか」
彼はそう言って、立ち上がろうとした。
「いいえ、結構よ。気分はもう良くなったわ」
私は彼を制止した。
「そうか。それは良かった。ところで、琴。今日は君の誕生日だということを、私は忘れていたわけではないんだぞ」
突然、宏明がそう言った。
彼の顔には、必死に言い訳しようとするような、焦りの色が浮かんでいた。
彼は、いつもそうだった。
大切なことを忘れ、後になってから言い訳をする。
そして、その言い訳は、いつも嘘だった。
「本当に、ごめん。埋め合わせは必ずするから」
彼は私の手を握り、懇願するように言った。
その手は、先ほどまで杏梨の体を抱きしめていた手なのだ。
「ちょっと、ごめんなさい……」
私はトイレへと駆け込んだ。
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