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第1章 忘れられない女性の涙私の地獄

「……まだ帰ってこない」

浅野理緒はリビングのソファに深く身を沈めたまま、壁に掛けられたモダンな時計を見上げた。短針はとっくに深夜1時を回っている。静寂が支配する高級マンションの一室で、秒針の刻む音だけがやけに大きく響いていた。

テーブルの上には二人分の食事が並んでいる。翔斗のために腕を振るったものだったが、ラップをかけられた料理はすっかり冷え切っていた。夫である高梨翔斗からは、今夜も夕食がいらないという連絡すらない。

結婚して二年。これが、彼女にとっての日常だった。

理緒は小さく息をつき、手元のスマートフォンをタップする。画面に表示されたのは、数時間前に送った「夕食を用意して待っています」というメッセージ。その横には既読の文字が、まるで嘲笑うかのように灯っていた。返信はない。

(また、あの人のせいなのかな……)

胸の奥がずきりと痛む。脳裏をよぎるのは、世間でまことしやかに囁かれている噂。翔斗の心に棲む「忘れられない女性」――塩谷瑞紀が、彼の弟である高梨蒼と婚約したという話。その発表があったのは、つい先日のことだ。翔斗の機嫌がここ数日、輪をかけて荒れているのは、きっとそのせいなのだ。

カチャリ、と玄関の鍵が開く微かな音がして、理緒は弾かれたように立ち上がった。もしかしたら、今日は少しだけでも話ができるかもしれない。そんな淡い期待が、冷え切った心に小さな灯りをともす。

しかし、リビングに現れた翔斗の姿を見て、その淡い希望は一瞬でかき消された。足取りは覚束なく、強いアルコールの匂いを纏っている。端正な顔立ちには、理緒の知らない深い苦悩の色が刻まれていた。

「翔斗さん、大丈夫?」

理緒は駆け寄り、彼の体を支えようと腕を伸ばした。

だが次の瞬間、翔斗は氷のように冷たい視線で彼女を一瞥し、その手を乱暴に振り払った。

「触るな」

吐き捨てるような、冷え切った声。

振り払われた理緒の手は行き場を失い、宙を彷徨った。心臓を氷水に浸されたかのように、急速に全身の血が引いていく。

翔斗は億劫そうにコートを脱ぎ捨てると、ソファにドサリと身を沈めた。その拍子に、スーツのポケットからスマートフォンが滑り落ち、カーペットの上へ転がる。

パッと画面が点灯した。

理緒の目に飛び込んできたのは、満面の笑みを浮かべる塩谷瑞紀の姿だった。夏のひまわり畑を背景に、幸せそうに微笑んでいる。それが、夫のスマートフォンの待ち受け画面に設定されていた。

理緒は息をのんだ。一瞬、呼吸が止まる。

結婚して二年。夫の待ち受け画面を飾っているのが、妻である自分ではない別の女性であることを、今初めて知った。

「チッ……」

翔斗は不機嫌そうに舌打ちすると、素早くスマートフォンを拾い上げ、画面を伏せてテーブルに置いた。まるで見られたくないものを隠すかのように。

「人のものを覗き見るな。卑しい」

突き刺さるような言葉に、理緒は唇を強く噛みしめてうつむいた。何も言い返せない。ここで反論すれば、彼の機嫌をさらに損ねるだけだ。この二年間の結婚生活で、嫌というほど思い知らされていた。

翔斗はふらつく足取りで立ち上がると、書斎へと向かう。バタンと乱暴に閉められたドアの音が、静まり返ったリビングに重く響き渡った。

一人残された理緒は、虚しさを抱えたまま、テーブルの上の冷え切った食事を片付け始めた。涙がこぼれそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死にこらえる。自分はこの家で、一体何なのだろう。

その時だった。テーブルの上に置かれたままの翔斗のスマートフォンが、けたたましい着信音とともに震えだした。画面に表示された発信元の名前は「高梨本邸」。

理緒は一瞬躊躇したが、無視するわけにもいかない。書斎のドアの前に立ち、控えめにノックした。

「翔斗さん、本邸からお電話です」

「……入れ」

中から返ってきたのは、苛立ちを孕んだ声だった。理緒は静かにドアを開けた。

書斎の中には、高級なウイスキーの香りが満ちていた。翔斗はデスクの重厚な革張り椅子に深く腰掛け、グラスを傾けている。理緒からスマートフォンを受け取ると、無言で通話ボタンを押した。

「……父さんか」

電話に出た彼の声は、先ほどの刺々しさが嘘のようにわずかに落ち着いていた。相手は義父の高梨昭彦らしい。

受話口から漏れ聞こえる声は断片的だったが、有無を言わせぬ口調で、今すぐ本邸に来るよう告げているのが分かった。

通話を切った翔斗は、忌々しげにグラスを机へ置くと、理緒に向かって短く告げた。

「行くぞ」

拒絶を許さない、絶対的な命令だった。

黒塗りの高級車の中には、重苦しい沈黙が満ちていた。運転手の手前、二人の間に言葉はない。理緒はただ、窓の外を流れるきらびやかな夜景を、感情の消えた瞳で見つめていた。胸のざわつきを押し殺し、心を無にしようと必死に努める。

車は都心の一等地にそびえ立つ、城のように広大な高梨家の本邸に到着した。

「車で待っていろ」

翔斗はそう言い捨てると、理緒を車内に残したまま一人で降りていった。

理緒は、闇の中へと消えていく彼の広い背中を見送る。彼は正面玄関ではなく、手入れの行き届いた広大な庭園の奥へと向かっていた。その先に微かな人影が見えた気がして、理緒の胸に嫌な予感が広がる。

居ても立ってもいられず、理緒は衝動的に車のドアを開けた。運転手が一瞬驚いた顔をしたが、理緒は小さく会釈だけを返し、足音を忍ばせて彼の後を追う。

庭園の奥、淡くライトアップされた大きなクスノキの下。

翔斗が立っていた。

そしてその目の前には、肩を震わせて泣きじゃくる塩谷瑞紀の姿があった。

翔斗の表情は、理緒が今まで一度も見たことのないものだった。痛々しいほど優しく、そして胸を締めつけられるような苦悩に満ちている。

「泣かないでくれ、瑞紀。俺がいる」

翔斗の声は、理緒に向けるものとはまるで違っていた。甘く、切なく、どこまでも愛おしそうに響く。

彼はそっと手を伸ばすと、瑞紀の頬を伝う涙を親指で優しく拭った。その仕草はあまりにも自然で、まるで幾度となく繰り返されてきたかのように慣れ親しんでいた。

その光景を目にした瞬間、理緒の世界からすべての音が消え去った。

心臓を力任せに鷲掴みにされ、ねじり上げられるような激痛。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、喉の奥で息が詰まる。

これが、夫の本当の気持ち。

これが、彼が心から愛している女性。

自分は、このふたりの美しい物語に割り込んだ、ただの邪魔者でしかなかったのだ。

理緒は無意識に後ずさった。足元の小枝が、パキリと乾いた音を立てる。

その音に、翔斗と瑞紀が同時にこちらを振り返った。

続きを読みますか?

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全57章

  1. 第1章第1章 忘れられない女性の涙私の地獄
  2. 第2章第2章 偽りの庇護緑茶の微笑
  3. 第3章第3章 穢された口づけ凍てつく心

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