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第3章 虚偽の転倒と決然たるカウントダウン
通話が繋がる直前、理歌菜は通話を切り、スマートフォンをポケットの奥深くへと滑り込ませた。
ドアが重い音を立てて開き、真司が瑞依の腰を抱きかかえるようにして乗り込んできたからだ。
狭い後部座席に、瑞依の甘ったるい香水の香りと湿った冷気が充満する。
「真司様……なんだか頭がクラクラします……」
「無理もない。あんな乱暴をされたんだ、安静にしていろ」
真司は瑞依を自分の胸元に引き寄せ、痛ましげにその背を撫でた。
その視線の端には、左腕から血と体液を滲ませ、青ざめた顔で座る理歌菜の姿が確実に映っているはずだった。だが、男の口から出たのは労いではなく、冷たい蔑みの言葉だった。
「みっともない姿を晒すな。屋敷に着いたら裏口から入れ」
理歌菜の胃の奥から、酸っぱい嘔吐感がせり上がってきた。
これ以上、この空間で同じ空気を吸い続けることなど耐えられない。
理歌菜は無言のままドアノブに手をかけ、外へと出ようとした。
「おい! どこへ行く気だ!」
真司が鋭く叫び、理歌菜の襟首を後ろから乱暴に引っ張った。
窒息しそうな力で引き戻された理歌菜の背中が、真司の硬い胸板にぶつかる。
その時、瑞依の瞳に狡猾な光が走った。
「キャッ……! 理歌菜さん、押さないで!」
瑞依は自ら身体を大きく傾け、開いたままの車のドアから濡れたアスファルトの上へと派手に転がり落ちた。
「瑞依!」
真司の表情が一変した。
怒りで目を血走らせた真司は、何の躊躇もなく腕の中にいた理歌菜の両肩を掴み、外へ向けて力任せに突き飛ばした。
「この悪女が!」
「――あ!」
凄まじい衝撃を受け、理歌菜の身体は宙を舞うようにして車外のアスファルトへと叩きつけられた。
鈍い音とともに、理歌菜の腰が駐車場のコンクリート製車止めに強打される。
背骨を貫くような激痛が走った。
視界が一瞬で真っ白になり、肺の中の空気がすべて吐き出される。
冷たい雨水が服を通り越して皮膚を濡らし、腰の奥で骨が軋むような痛みが全身を麻痺させた。
「瑞依、大丈夫か?! 立てるか?!」
真司は泥水に倒れ込む理歌菜を一瞥すらすることなく、膝をついて瑞依を抱き起こした。
瑞依の手のひらにわずかな擦り傷があるのを見るや、真司は激昂して理歌菜を見下ろした。
「人間のクズめが……! 瑞依に何かあったら、貴様を赤沢家から永久に追放するだけでは済まさんぞ!」
吐き捨てるように怒鳴ると、真司は瑞依を横抱きにして、再び病院の建物へと足早に消えていった。
冷たい雨が容赦なく理歌菜の顔に降り注ぐ。
濡れた地面に爪を立て、指先から血を滲ませながら必死に上半身を起こそうとした。
だが、腰に激痛が走り、何度も泥の中に崩れ落ちる。
(泣かない……こんな奴らのために、涙一滴流すものか)
歯を食いしばり、口内に広がる血の味を感じながら、理歌菜は車止めに縋り付いてゆっくりと立ち上がった。
足を引きずり、一歩進むごとに腰と腕へ火をつけられたような苦痛が走る。
彼女は改めて救急外来の受付へ向かった。
待合室の人々が、泥と血にまみれた彼女の姿を見て息をのむ。
「……診察をお願いします」
処置室で、老医師は理歌菜の左腕の火傷と、腰の黒紫に変色した凄まじい打撲痕を見て顔色を変えた。
「これは……ひどい。腰は骨にヒビが入っている可能性がありますよ。なぜこんなになるまで放っておいたんですか!」
「……転んだだけです」
理歌菜は淡々と答え、麻酔なしで水泡の処置をされる間も下唇を噛み締め、一言も声を上げなかった。
包帯と湿布で処置を終え、痛み止めを処方された理歌菜は、薄暗い廊下のベンチに腰を下ろした。
壁の時計は午前十一時を回っている。
理歌菜は再びスマートフォンを取り出し、先ほどの番号へと発信した。
数回のコールの後、低く落ち着いた懐かしい声が響いた。
『もしもし、理歌菜か? どうしたんだ、こんな時間に』
帝都情報工科大学時代の先輩であり、新鋭IT企業「ディンセン」の代表を務める橘蒼介だった。
「……蒼介先輩」
理歌菜の声はかすれていたが、その響きは氷のように研ぎ澄まされていた。
『理歌菜? 声がおかしいぞ。何かあったのか?』
「先輩……以前お話しいただいた、海外事業部の立ち上げ案件……まだ枠は空いていますか?」
電話の向こうで息をのむ気配がした。
『ああ、もちろんだ。君のアルゴリズム解析とメディア開発の技術は世界トップレベルだ。うちの会社はずっと君を待っている。だが……赤沢家との生活はいいのか?』
「はい。すべて整理がつきました」
理歌菜は壁に頭を預け、冷たい天井を見上げた。
「一ヶ月後に出発します。私の身辺整理が終わるまで、この件は極秘にしてください」
『分かった。君の決断を歓迎するよ。準備はすべてこちらで整えておく』
「ありがとうございます」
通話を切った理歌菜は、スマートフォンの待受画面を見つめた。
そこには二年前に無理やり撮らされた、無表情の真司の写真があった。
理歌菜の指先が迷いなく動く。
写真フォルダを開き、真司に関連する数千枚の画像ややり取りの履歴をすべて全選択し、一括削除のボタンを押した。
プログレスバーが一瞬で百パーセントに達し、画面から男の痕跡が消え去る。
(あと二十九日。それですべて終わりよ)
理歌菜は立ち上がり、痛む足取りで病院の出口へと歩き出した。
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