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第1章
「うっ……」 頭を割るような痛みで東海林美雪は目を覚ました。 知らない天井。消毒液と高級なリネンが混じった匂い。ここはホテルのようだ。 全身が鉛のように重く気怠い。 美雪はゆっくりと身を起こそうとして、隣に人の気配を感じた。 息が止まる。 恐る恐る首を動かすと、そこには見知らぬ男が眠っていた。 彫刻のように整った顔立ち。高い鼻筋と固く結ばれた唇。鍛え上げられた逞しい体躯がシーツ越しにもわかる。 心臓が氷水に浸されたように冷たくなった。 昨夜の記憶が断片的に蘇る。 義理の妹である奈々がしきりに勧めてきたシャンパン。 「お姉様、婚約おめでとう」 そう言って微笑む奈々の顔。 あのグラスに何か入っていたのだ。 美雪はベッドサイドのテーブルに目をやった。そこには「1703」というルームナンバーが刻まれたカードキーが置かれている。自分の部屋は1702号室のはずだった。 全身の血が逆流するような感覚。屈辱と恐怖で指先が震える。 彼女は床に散らばった自分のドレスを掴むと、音を立てないようにベッドを抜け出した。 その時だった。 男が身じろぎし、低い呻き声を漏らした。 美雪の動きが凍りつく。 男はゆっくりと目を開けた。その瞳には彼女と同じような混乱と鋭い光が宿っていた。 視線が絡み合ったのは一瞬。 美雪は悲鳴を飲み込み、服をひっつかんで部屋から飛び出した。裸足のまま夢中で廊下を走る。 部屋に残された五十嵐岳人はこめかみを押さえた。 ひどい頭痛がする。 昨夜のことは、異常な体の火照りと柔らかな感触の記憶しか残っていなかった。 彼は舌打ちを一つすると、床に落ちていた女性ものの小さなイヤリングに目を留めた。 1702号室に転がり込んだ美雪は、そのままシャワールームへ直行した。 熱い湯を体に叩きつけ、肌を擦る。ゴシゴシと、まるで他人の体に触れられた痕跡を消し去るように。 涙が熱湯に混じって頬を伝った。 鏡に映った自分の首筋には、見覚えのない赤い痕が点々とついていた。 絶望が胃の腑からせり上がってくる。 その時、けたたましく携帯が鳴った。 婚約者である伊藤彰文の秘書からだった。 「美雪様、まもなく披露宴が始まります。彰文様がお待ちです」 無機質な声が彼女を地獄へと誘う。 美雪は深呼吸を一つした。 泣いている場合ではない。 彼女はバスローブを羽織ると、化粧ポーチから一番カバー力の高いコンシーラーを取り出した。首の痕を執拗に塗りつぶし、完璧な礼装に着替える。 鏡の中の自分はいつも通りの東海林財閥の令嬢だった。ただ瞳の奥に宿る光だけが、氷のように冷たく凍てついていた。 グランドハイアット東京の宴会場は華やかな雰囲気に満ちていた。 シャンデリアがきらめき、着飾った人々が談笑している。 美雪が姿を現すと、待っていた伊藤彰文が不機嫌そうな顔で近づいてきた。 「遅いじゃないか。どこに行っていたんだ」 「ごめんなさい。少し体調が……」 美雪が言い終わる前に、義妹の奈々が駆け寄ってきた。 「お姉様!どこに行ってたの?心配したんだから!」 その目は隠しきれない得意の色に輝いていた。 美雪が氷のような視線を向けると、奈々は怯んだように一歩後ずさった。 彰文は美雪の腕を掴み、無理やりステージへと引き上げた。 婚約披露パーティーが始まる。 司会者の祝福の言葉。鳴り響く拍手。全てが遠い世界の出来事のようだった。 そして指輪交換の時が来た。 彰文は美雪の前に立つとマイクを握りしめ、冷たい笑みを浮かべて言った。 「指輪を交換する前に、皆様に面白いものをお見せしたいと思います」 会場がざわめく。 次の瞬間、ステージ上の巨大スクリーンに数枚の写真が映し出された。 乱れたドレスのままホテルの部屋から飛び出してくる美雪。その首筋には生々しいキスマークがはっきりと写っていた。 一瞬の静寂の後、会場は爆発したような喧騒に包まれた。無数のフラッシュが焚かれ、人々がひそひそと囁き合う。 父親の東海林健吾は顔を真っ赤にして震えていた。 彰文は美雪の前に歩み寄ると、憎悪に満ちた目で彼女を見下ろした。 「東海林美雪。よくも俺を裏切ってくれたな。この恥知らずが」 彼は美雪の手を乱暴に振り払い、マイクを通して会場中に響き渡る声で宣言した。 「私、伊藤彰文はただ今をもって東海林美雪との婚約を破棄する!我が伊藤家にこのような汚れた女は必要ない!」 奈々がわざとらしく駆け寄り、よろめく美雪を支えるふりをした。 「お姉様、どうしてこんなことを……。早く彰文さんに謝って!」 美雪はこの茶番を繰り広げる二人を、冷え切った心で見ていた。 彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳はもはや何の感情も映していなかった。 「後悔するわよ」 彰文に向けられた声は静かだが、地獄の底から響くようだった。 次に彼女は奈々を見た。 「この借りは必ず返す」 美雪は背筋を伸ばした。 嘲笑と侮蔑の視線がナイフのように突き刺さる。彼女はその全てを跳ね返すように、毅然とした足取りでステージを降りた。 カツカツとハイヒールの音だけがやけに大きく響いた。 宴会場の扉にたどり着いた時、激しい吐き気がこみ上げてきた。 美雪は洗面所に駆け込み、胃の中のものを全て吐き出した。 その時彼女は悟った。自分の身に最悪の変化が起きているかもしれないと。
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