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タクシーは麻布の閑静な住宅街の一角で停まった。 目の前にはモダンな三階建ての建物がある。 「東海林総合診療所」――それが彼女の反撃の城だった。 美雪はクリニックの鍵を開け、子供たちを中へ導いた。 「蒼真、莉子、しばらくここが私たちの家よ」 彼女は手早く二階の居住スペースにスーツケースを運び込み、最低限の荷物をほどいた。待っている時間はない。 「ママはこれからおばあちゃんの病院へ行く。蒼真、莉子のこと、お願いね」 「わかってる。ここのセキュリティは僕が掌握した。誰も入れない」 蒼真はタブレットを操作しながら頼もしく頷いた。 「ママ、気をつけてね」 莉子が心配そうに美雪の服の裾を掴む。 美雪は二人の頭を優しく撫でると、すぐに外出用のジャケットを羽織った。 「すぐに戻るから」 彼女は階段を降り、地下の駐車場へと続く通路を早足で進んだ。 一分一秒がおばあ様の命に直結している。 外は小雨が降り始めていた。 コンクリートの匂いが立ち込める薄暗い駐車場で、自分の車のキーを取り出す。 その時、ふと隣に停まっている黒塗りの高級車のドアが半開きになっていることに気がついた。 そして地面に広がる黒い染み。 水たまりかと思った。 だが空気中に漂う微かな鉄の匂いが彼女の足を止めさせた。 血の匂い。 医者としての本能が警鐘を鳴らす。 ためらいは一瞬だった。 彼女は足音を忍ばせ、その車に近づいた。 運転席のドアの横に、一人の男が倒れていた。 腹部を白いシャツごと真っ赤に染め、苦しそうに息をしている。 傷は深い。 美雪はすぐさま携帯を取り出し、救急車を呼ぼうとした。 その時だった。 「ママ!」 背後から莉子の声がした。心配して後を追ってきたらしい。 「莉子、来ちゃだめ!」 美雪が振り返って制止するが、莉子はすでに駆け寄ってきていた。 そして倒れている男の顔を見て、目を丸くした。 「ママ見て!このおじさん、蒼真にそっくり!」 美雪の心臓が大きく跳ねた。 彼女は莉子の言葉に導かれるように、男の顔を覗き込んだ。 雨と血で濡れた前髪を震える手でそっと払う。 現れた顔を見て、美雪は息を飲んだ。 息子の蒼真と瓜二つ。ただその顔の輪郭はよりシャープで、冷たく見る者を圧倒するような凄みがあった。 脳が思考を停止する。 六年前のあの夜の記憶がフラッシュバックする。 暗闇の中ではっきりと見えなかった男の顔。 あの時、体調の異変に気づき、たった一人で二つの命を宿していると知った日のこと。 家族を失い、全てを奪われた絶望の中で、それでもこの子たちだけはと、美雪は医師になることを決意した。 昼は働き、夜は猛勉強し、時には子供たちを背負いながら、血の滲むような努力で医学の道を切り開いてきた。 その時、男がうっすらと目を開けた。 朦朧とした意識の中、彼の瞳が美雪の姿を捉える。助けを求めようと唇が動くが、声にならない。 「ママ、助けてあげて!お願い!」 莉子が泣きそうな声で美雪の腕にすがりついた。 「この人が私たちのパパなの?」 無邪気な言葉が雷のように美雪の心を貫いた。 違う。 違うはずだ。 でも。 もし万が一。 美雪は混乱する頭を無理やり冷静に切り替えた。 今は考えている時間はない。 この男をこのまま大病院に運ぶわけにはいかない。警察やマスコミが来れば、自分たちの存在が世間に知られてしまう。 それは絶対に避けなければならない。 彼女は男の腹部の傷口を素早く確認した。 鋭利な刃物による刺し傷。出血がひどい。一刻も早い手術が必要だ。 決断は一瞬だった。おばあ様の元へ行く時間は削られる。だが、目の前の命を見捨てることは、医師としての自分を殺すことと同じだ。 この男を自分のクリニックに運び、自分が執刀する。 それが彼を救い、そして真実を確かめる唯一の方法だった。 「莉子、怖がらないで。ママがこの人を助けるわ」 美雪は娘の目を見て力強く言った。 「あなたは蒼真と一緒にクリニックの手術室の準備をしてちょうだい」 「うん、わかった!」 莉子はこくっと頷くと、一目散にクリニックへと走っていった。 美雪は残された男に向き直った。 自分よりもはるかに体格のいい男を力の限り引きずり、自分の車の後部座席へと押し込む。 エンジンをかけ、アクセルを踏み込む瞬間、バックミラーに映る男の顔を見た。 六年前の夜の断片的な記憶と目の前の現実が重なり、彼女の心は激しい嵐に見舞われていた。 これは偶然であってはならない。 そして偶然であるはずがなかった。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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