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第3章
朝の光が、厚いカーテンの隙間から差し込んでいる。静は、昨夜つけられた首筋の赤い痕を隠すように、シャープなシルエットのビジネススーツに着替えていた。 彼女は印刷したばかりの『離婚協議書』を茶封筒に入れ、ハイヒールを鳴らして階下へ降りた。電力は既に復旧している。 ダイニングルームでは、鷹司暁が長いテーブルの主席に座り、『日本経済新聞』を読んでいた。その表情は、いつもの冷徹なものに戻っている。 静は彼の向かいの椅子を引き、メイドが差し出すコーヒーを断った。そして、茶封筒を暁の前に滑らせる。 封筒が、磨き上げられたテーブルの上を音もなく進み、彼のコーヒーカップの横で止まった。 「何の真似だ」 暁は新聞から視線を外さずに言った。 静は両手をテーブルの上で組み、平坦で明瞭な声で四つの文字を告げた。 「離婚協議書」 新聞をめくっていた暁の指が、一瞬止まった。 彼はようやく顔を上げ、その目に苛立ちの色を浮かべる。 新聞を置き、封筒を手に取って、中身を引き抜いた。 『財産分与:鷹司グループ株式の5%及び婚姻期間中の資産の半分の譲渡を要求する』 その一文を読んだ瞬間、暁は怒りのあまり、逆に笑みを浮かべた。 「フッ…」 彼は協議書をテーブルに叩きつけた。その衝撃で、コーヒーカップの中身が跳ねる。 「随分と欲が深いな」 静は一歩も引かなかった。 「この三年間、グループの名ばかりの取締役として尽くした対価ですわ」 暁が立ち上がり、テーブルに両手をつく。彼は静を見下ろし、これは脅迫だと非難した。 「あなたが白石千尋に注ぎ込んだ資源に比べれば、九牛の一毛にも満たないでしょう」 静は皮肉を込めて言い返した。 千尋の名前が出た途端、暁の目が完全に冷たくなった。 「無関係な人間を巻き込むな」 「無関係?」 静はその言葉の馬鹿馬鹿しさに、嘲るような冷笑を浮かべた。 その笑みが暁を苛立たせた。彼は静がただ嫉妬に狂っているだけだと確信する。 彼はその離婚協議書を掴み取った。 そして、静の静かな視線の中で、分厚い書類を両手で力任せに引き裂いた。 ビリビリと紙の破れる耳障りな音が、静かなダイニングに響き渡る。 紙片が雪のようにテーブルの上に舞い散った。 「俺が同意しない限り、お前は鷹司家から一歩も出られない」 冷酷な声が静に突き刺さる。 静はテーブルに散らばった紙屑を見つめた。怒りはなかった。彼女は立ち上がり、ジャケットの裾を整える。 「紙を破っても、法的な手続きは止められません。私の弁護士が直接法務部と話をします」 静は玄関に向かって歩き出した。 「待て!」 背後で暁が鋭く叫ぶ。静は聞こえないふりをした。 執事が気まずそうに車のキーを差し出す。静はそれを受け取り、大股で玄関を出て行った。 暁は彼女の決然とした後ろ姿を見つめ、テーブルに拳を叩きつけた。関節が白くなる。 彼はすぐに秘書の林浩一に電話をかけた。 「小松原静名義の全ての付属クレジットカードを停止しろ」 電話の向こうで、林が恐縮した声で報告する。 「それが…奥様は今朝方、ご自身で全ての家族カードを解約されておりました」 スマートフォンを握る暁の手に力がこもる。 初めて、物事が自分の絶対的な支配下から外れていく感覚に襲われた。 彼は苛立たしげにネクタイを緩め、運転手に車を準備するよう命じた。 「会社に行く。あの女を引きずってでも連れ戻す」 マイバッハが屋敷を出ていく。暁の目は暗く燃えていた。 権力と尊厳を賭けた夫婦の戦争が、今始まった。
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