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第1章
「暁さん、喜んでくれるかしら」 小松原静は特注のケーキが入った箱を大切そうに胸に抱え、リッツ・カールトン東京の最上階スイートルームのドアの前に立った。結婚三年目の記念日。夫である鷹司暁は、今夜ここで彼女を待っているはずだった。 指先が冷たいドアノブに触れる。その瞬間、ドアが僅かに開いていることに気づいた。隙間から漏れ出す冷気と共に、甘ったるい薔薇の香水の匂いが静の鼻腔を掠める。 彼女の眉が微かに顰められた。 指をドアノブにかけたまま、動きが止まる。ドアの向こうから、女の甲高い笑い声が聞こえたのだ。心臓が嫌な音を立てて跳ねた。 静は息を殺し、そっと隙間から中を覗き込む。 視線が玄関を越え、リビングのペルシャ絨毯の上で絡み合う二つの物体を捉えた。 一つは見覚えのある男物のネクタイ。 もう一つは見覚えのない黒いレースのランジェリー。 そのネクタイは、静が先月彼のために選んだ限定品だった。それが今、見知らぬ女の下着と無造作に絡まっている。 静の瞳孔がきゅっと収縮した。 奥のバスルームから、バスローブ姿の女が駆け出してくる。白石千尋。最近メディアを賑わせているモデルだ。彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、後から出てきた長身の男の胸に飛び込んだ。 鷹司暁。 彼は片手で千尋の身体を受け止める。その冷たい光を宿した横顔は、薄暗い照明の下でどこか気怠げに見えた。彼は千尋を突き放さなかった。 千尋が背伸びをして、キスを強請る。暁は僅かに顔を傾け、唇へのキスは避けた。だが、そのキスが彼自身の顎に落ちるのを許した。その甘やかな光景は、静の胸を抉るには十分すぎた。 胃の奥が冷たくなる。指の爪が知らず識らずのうちに掌に深く食い込んでいた。大切に持っていたケーキの箱が、手のひらに赤い跡を刻む。 「いつまであんな女を奥様の席に座らせておくの?」 千尋の甘ったるい声が、静の耳に届いた。 「あれはただの家のための政略結婚だ。感情などない」 暁の冷たい声が、静の最後の希望を打ち砕いた。 氷水を頭から浴びせられたような衝撃。静の瞳の奥で微かに灯っていた温かい光が、ふっと音を立てて消えた。 彼女は部屋に乗り込まなかった。怒鳴り散らすこともしなかった。 ただ静かに半歩下がり、スマートフォンのカメラを起動する。そして、抱き合う二人の後ろ姿を、無感情に写真に収めた。 静は踵を返し、エレベーターホールへと向かう。 その途中、廊下に設置されたゴミ箱に、高価な記念日のケーキを何の躊躇もなく投げ捨てた。 帰りのタクシーの車窓から、東京の夜景が流れていく。静はタブレット端末を取り出し、鷹司家の邸宅管理システムにアクセスした。画面には、暁が持つ副カードの利用履歴が表示されている。リッツ・カールトンの決済記録。彼女の唇の端に、冷たい笑みが浮かんだ。 静は迷うことなく、専属弁護士に電話をかけた。 「離婚協議書を。今すぐに」 その声には、何の感情も籠っていなかった。 電話の向こうで、弁護士が驚き、考え直すよう促す。だが、静の決意は固かった。 「明日の朝、私のデスクに置いてください」 電話を切ると、静は家庭用のエネルギー管理端末にログインした。最高権限のパスワードを入力する。 『本宅の電気、水道、ガスの供給を全て遮断しますか?』 システムが最終確認を求めてくる。 静はためらうことなく、『はい』をタップした。 画面に『コマンド送信完了』の文字が表示される。静は目を閉じた。全てを壊す前の、ほんの僅かな静寂。 タクシーが世田谷区の高級住宅街に入る。遠くに見えるはずの煌々と輝く鷹司家の豪邸が、今は死んだように深い闇に沈んでいた。 重い玄関ドアを押し開ける。メイドたちが懐中電灯を手に慌てふためいているが、静は一瞥もくれず、リビングの中央にあるソファに腰を下ろした。 執事が駆け寄り、配電系統の故障だと焦ったように報告する。 静は冷え切ったテーブルの上のお茶を一口啜った。 「私が切ったの」 その静かな声に、メイドたちは息を呑んだ。女主人の纏う、今まで感じたことのない冷たい圧に、誰もが口を噤み、後ずさる。 静はタブレットで離婚協議書の草案リストを作成し、自分が得るべき財産分与の項目に赤いマーカーを引いていく。 その時、庭の外からけたたましいエンジン音が響いた。眩いヘッドライトの光が落地窓を突き抜け、静の無表情な顔を白く照らし出す。 鷹司暁のマイバッハが玄関前で急ブレーキをかけて止まった。 車のドアが乱暴に開けられる音がする。 長い脚で、暁が暗い玄関ホールに足を踏み入れた。その全身から、不機嫌なオーラが立ち上っている。 彼はネクタイを乱暴に緩めながら、暗闇の中、ソファに座る静の姿を正確に捉えた。 「予備電源はどうした!」 暁が、自分の時間を邪魔された支配者特有の怒りを込めて、執事を怒鳴りつける。 その声に応えるように、静が暗闇の中でゆっくりと立ち上がった。 彼女は手にしていたタブレットを、ガラスのローテーブルの上に投げつける。 ゴン、と鈍い音が響いた。 静は、暁の怒りを正面から受け止めるために、ただ静かにそこに立っていた。
章一覧
全60章
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