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玲奈 POV:

エントランスホールでの一件は、ほんの前菜に過ぎなかった。 屈辱のメインディッシュは、その一時間後、社内電話を通じて私のデスクに直接届けられた。

開発環境のセットアップをしようとしていた時、オフィスのかすかなざわめきを切り裂くように、内線電話がけたたましく鳴った。 私は受話器を取る。 「田中です」

「もう10分も経ってるわよ」 電話の向こうの声は、悪意に満ちていた。 樹里だ。 康太のオフィスから私の内線番号を聞き出したに違いない。 「私のコーヒーはまだ?」

私はゆっくりと、落ち着いて息を吸った。 「申し訳ありません、如月様。給湯室のコーヒーメーカーはカプセル式で、挽きたての豆には対応しておりませんでした。他に社員が使えるマシンがないか、今確認しております」

「カプセル?」 彼女は心底侮辱されたような声を出した。 「冗談でしょ?ここは時価総額1000億の会社よ、安物のビジネスホテルじゃないの。ちゃんとしたアメリカーノが必要なの。エスプレッソを2ショット、その上からお湯を注ぐのよ。逆じゃないわ、分かる?クレマを壊さないように。それと、セラミックのマグカップに入れて。会社のロゴが入った、あの醜い紙コップは絶対に嫌」

その要求の細かさは、異常だった。 彼女はただコーヒーを求めているのではない。 忠誠心を試すためのテストを作り上げていた。

「今すぐ欲しいの」 彼女は声を低くして付け加えた。 「私を待たせないで」

「承知いたしました」 私は、彼女がさらなる馬鹿げた要求を付け加える前に、電話を切った。

私は役員フロア専用の、本来なら私が立ち入るべきではない高級なキッチンへと向かった。 エレベーターが階を一つ上がるごとに鳴る音が、プレッシャーを増幅させていく。 コーヒーマシンは銀色に輝く怪物で、複雑で威圧的だった。 豆を挽く方法を理解するだけで、丸3分もかかってしまった。

エスプレッソが抽出されるのを待っていると、ポケットのスマートフォンが震えた。 康太からのメッセージだった。

『大丈夫?樹里が少しイライラしてるみたいだけど』

私はその文字を睨みつけ、喉の奥で苦い笑いが込み上げた。 少しイライラしてる? 彼女は戦争を仕掛けているのに、彼はまるで彼女が少し機嫌を損ねただけのように振る舞っている。

返信する前に、廊下から聞こえるデスクの電話が再び鳴り始めた。 その音は狂ったように、執拗に響いていた。 私はエスプレッソの最後の一滴が落ちるのを見届けると、マグカップを掴んで急いで戻った。 熱いセラミックが、私の手を温めていた。

開発チームの全員が、私を見ていた。 電話は、かなり長い間鳴り続けていたようだ。

私が受話器を取った瞬間、樹里の声が金切り声に変わった。 「どこに行ってたのよ!あなた、無能なの?私が頼んだのは簡単なコーヒーよ、コロンビアまで飛んで豆を摘んでこいなんて言ってないわ!」

「マシンの起動に少し時間がかかりまして」 私は、無理やり平静を装った、張り詰めた声で言った。 「コーヒーは、今お持ちします」

「少し?少しですって?」 彼女は絶叫した。 「私の気分が台無しよ!私の体質がどれだけデリケートか分かってるの?時間が経ちすぎて、酸味が全部おかしくなってるに決まってるわ!もし焦げた味がしたら、あなたの部署全体の責任にするから!」

彼女はスピーカーフォンにしていた。 誰もが、彼女の常軌を逸した暴言を聞いていた。 同僚たちの顔には、同情、嫌悪、そして恐怖が入り混じっている。 これが彼らの日常なのだ。 この有害で、理不尽な女が、彼らの生活を支配している。

私は、この馬鹿げた状況に対する盾として、プロ意識を保とうと努めた。 「ご安心ください、如月様。ほんの数秒前に入れたものです。すぐにお持ちします」

私は電話を切り、マグカップを手に役員フロアへと向かった。 しかし、彼女の方が早かった。 廊下で私を待ち構えていた彼女は、腕を組み、顔は暗雲に覆われていた。

彼女は一言も発さず、私の手からマグカップをひったくった。 熱いコーヒーが縁から溢れ、私の肌を焼いた。 私は鋭い痛みに、思わず声を上げた。 反射的に手を引く。

「不器用な間抜け!」 彼女は罵った。 奪い取ったのは彼女の方なのに。 彼女は芝居がかったように一口飲むと、心底嫌悪に満ちた顔をした。 「ぬるいわ。それにエスプレッソも焦げてる。最低」

彼女は、すでに赤く腫れ上がっている私の手を見下ろした。 そこには心配のかけらもなく、ただ軽蔑だけがあった。

「見てみなさいよ」 彼女は嘲笑した。 「簡単な配達も、自分を傷つけずにできないなんて。康太さんに言っておくわ。あなたみたいな人間は、ここで働くべきじゃない。会社の負債よ」

痛みは鋭く、脈打つ炎のようだったが、胸の中で燃え上がった怒りはそれ以上に熱かった。 私は指を握りしめた。 本能が、彼女のその smug な、残酷な表情を顔から消し去れと叫んでいた。 私は一歩前に出た。 顎が痛むほど、歯を食いしばっていた。

「田中さん、やめろ!」

突然、マネージャーのマークさんが現れた。 彼は私の腕を掴み、恐怖に目を見開いている。 彼は私を物理的に引き戻し、私と樹里の間に割って入った。

「如月様、誠に、誠に申し訳ございません」 彼はなだめるような声で言った。 「彼女は新人なのです。二度とこのようなことはございません。どうか、お許しください」

彼はほとんど懇願していた。 見るに堪えない光景だった。

彼は私に向き直り、腕を掴む力を強め、切迫した低い声で囁いた。 「やめておけ、田中さん。頼むから、やめてくれ。彼女は君をクビにするぞ。俺たち全員をクビにするんだ」 彼は最後の言葉を強調した。 私の反抗が、全員に影響を及ぼすという、厳しい現実を突きつけて。

樹里は、マークさんの怯えた顔と、私の怒りに満ちた顔を見比べ、ゆっくりと勝利の笑みを浮かべた。 彼女は勝ったのだ。 彼女は自分の優位性を主張し、部署の全員がそれを目撃した。

「いいわ」 彼女は、見下したような声で言った。 「あなたがそこまで言うならね、マークさん」

彼女は、先ほど飲めないと断言したコーヒーを、ゆっくりと一口飲んだ。 「ちょうど考えていたの」 彼女は、そこに集まった、囚われの身の開発者たちに向かって宣言した。 「この場所、少し息苦しいわね。ちょっと見学でもしようかしら。下々の者たちがどう働いているのか。まずは社員食堂からね。ランチの選択肢が、ひどくお粗末だと聞いているわ」

私の血の気が引いた。 社員食堂は、何百人もの従業員に食事を提供する大規模な施設だ。 厳格な衛生管理と安全規則がある場所。 樹里のような予測不能な人間が、深刻な損害を与えかねない場所だった。

「如月様」 私は低く、鋼のような声で言った。 「社員食堂は、調理担当者以外の立ち入りは制限されています」

マークさんの手が再び私の腕を掴んだ。 黙ってくれという、静かで必死の懇願だった。

「あら、そうなの?」 樹里は完璧な眉を吊り上げた。 「心配しないで。康太さんは気にしないわ。だって」 彼女は、私の目をまっすぐに見つめて付け加えた。 「彼と私は…とても親しい間柄だから。彼は私に、何でも話してくれるの」

その言葉に含まれた意味が、ねっとりとした脅威のように、その場に漂った。 彼女はただのCEOの友人ではない。 それ以上の存在として、自分を位置づけていた。

「彼女は明日にも、君の名前を解雇者リストに載せることができるんだ」 マークさんが私の耳元で必死に囁いた。 「ただ、君の顔が気に入らないというだけで。彼女に逆らうな。勝てないんだ」

私は樹里を見つめ返した。 頭の中では、あの約束がよぎっていた。 康太と私が交わした約束。 私たちは、敬意と誠実さの上に会社を築くはずだった。 私が見ているのは、残酷で気まぐれな女王が君臨する、恐怖に基づいた王国だった。

樹里は、ガラスが割れるような音で笑った。 「どうしたの、新人プログラマーさん?猫に舌でも取られちゃった?」

彼女は踵を返し、 smug な勝利感に腰を揺らしながら歩き出した。 「今日はどんな残飯が提供されてるのか、見せてもらいましょうか」

彼女はエレベーターに向かった。 後には、呆然とした沈黙と、焦げたエスプレッソのかすかで苦い香りが残された。

「あなたをクビにしてやるわ」 彼女は肩越しに叫んだ。 私に向けられた、最後の、別れの一撃だった。 「約束する」