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第2章
書斎からリビングに戻った静は、まっすぐ窓際へ向かった。眼下に広がる東京の夜景を見下ろし、スマートフォンの連絡先リストの奥深くに保存された番号を呼び出す。 「母」 三回のコールの後、電話は繋がった。受話器の向こうから、九条家の現当主・九条美智子の冷たく威厳のある声が聞こえる。 「おままごと遊びは、もう終わったのかしら」 静は目を伏せた。 「ええ、私の見る目がありませんでした。どうかお力をお貸しください」 声は、自分でも驚くほど平坦だった。美智子の声に、満足げな笑みの気配が混じる。 「いいでしょう。ただし、条件があるわ。九条家に戻りたければ、すぐに鷹司家との政略結婚を受け入れなさい」 脳裏に健斗と萌紗、そして息子の幸せそうな写真がちらつく。静は一瞬のためらいもなく答えた。 「承知いたしました」 その一言で、過去への退路は完全に断ち切られた。 電話を切ると、静はすぐにノートパソコンを開いた。健斗の会社の内部OAシステムにログインする。かつて自分が設計したシステムだ。管理者権限を使い、中核となる顧客リストのデータバンクにアクセスした。 『権限外のアクセスです』 警告ウィンドウがポップアップする。静は冷静に、自分が仕込んでおいたバックドアのコードを打ち込んだ。警告は瞬時に消え、データのダウンロードが始まる。 プログレスバーがゆっくりと進むのを見ながら、静は立ち上がり、ウォークインクローゼットへ向かった。奥から、五年前にこの家に来た時に持ってきた、たった一つのスーツケースを引きずり出す。 クローゼットに並ぶ、健斗が買い与えた安物の、彼の好みを押し付けただけのフェミニンなワンピースには目もくれない。静は、自分が元々持っていた数着のオーダーメイドのスーツだけを、手際よくケースに詰めていく。 リビングに戻ると、ダウンロードは完了していた。データを暗号化したUSBメモリに移し、自分のアクセス履歴を綺麗に消去する。 その時、玄関の電子ロックが解除される音がした。 健斗が、安っぽい香水の匂いと酒気をまとって帰ってきた。 リビングの明かりに気づき、千鳥足で近づいてくる。彼は、萌紗と会っていた後ろめたさを隠すかのように、静を抱きしめようとした。 静がすっと身をかわす。抱擁は空を切り、健斗は眉をひそめた。 「まだ怒ってるのか」 彼はポケットから、潰れたベルベットの小箱を取り出し、ローテーブルの上に放り投げた。 「ほら、埋め合わせだ。買ってきてやったぞ」 中身は、二万円の値札がついた、見るからに安っぽいネックレスだった。 静は、そのネックレスと口座から消えた五千万円を、頭の中で天秤にかける。唇の端に、凍るような嘲笑が浮かんだ。 その笑みが健斗の自尊心を傷つけたらしく、彼は大声で怒鳴った。 「俺が会社のために、毎日どれだけ苦労してると思ってるんだ!お前は金のことばかりだな!」 静は反論しなかった。ただ、彼の言葉に乗るように静かに言った。 「ええ、本当に大変そうですわね」 その他人行儀な口調に、健斗は虚を突かれた。彼は、静の反論や最終的な妥協に慣れきっていた。感情の読めない反応に、彼は得体の知れない恐ろしさを感じた。 主導権を取り戻そうと、健斗はわざとらしく咳払いをした。 「明日、林代表との一億円の契約がある。お前も必ず同席しろ。いいな」 虚勢を張るその顔を見つめながら、静は心の中で、そのプロジェクトに死刑宣告を下した。しかし表情は変えず、従順に頷いてみせる。 「わかりました」 健斗は満足げに鼻を鳴らし、再び彼女を支配できたと思い込んだまま、バスルームへと消えていった。 シャワーの音が聞こえる。静はスマートフォンを取り出し、林代表のLINEを開いた。 「明日の契約の件、技術的な欠陥が見つかりました。提携は白紙に戻してください」 暗号化されたメッセージを送信する。送信完了の表示を確認すると、スマートフォンをマナーモードにし、スーツケースを引いて玄関へ向かった。 自分のものだった赤いソールのハイヒールに足を入れる。 振り返り、五年を過ごしたこの部屋を見渡した。バッグから、健斗に渡された婚約指輪を取り出す。そして玄関脇のゴミ箱に、ためらいなく投げ捨てた。 ドアを開け、東京の初冬の冷たい風の中に身を乗り出す。 マンションの前には、一台の黒いマイバッハが、エンジン音も立てずに静かに停まっていた。 後部座席の窓が下がり、鷹司家の秘書・加藤誠が恭しく降りてきて、静のためにドアを開けた。 静は身をかがめて車内に滑り込む。ほのかな白檀の香りが、外の喧騒と寒さを遮断した。 「静様、お待ちしておりました」 加藤が、金色の箔押しがされた婚約合意書を差し出す。 「鷹司様が、明日の夜正式にお会いできることを楽しみにしておられます」 静はそれを受け取った。紙面に踊る、鷹司暁という男の力強い署名に指を滑らせる。 彼女の瞳に、揺るぎない決意の光が宿った。 車は滑るように発進し、九条本家へと向かう。バックミラーに映るマンションが、どんどん小さくなっていく。 過去の九条静は、今完全に死んだ。
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全60章
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