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第2章 奪われた形見と、冷酷な侮蔑

リビングの空気が一瞬にして張り詰めた。 しかし、その重苦しい静寂を破ったのは、奥の部屋から駆け寄ってきた義母の明美と義妹の沙也加の歓声だった。 「あら、千夏さん! いらっしゃい! 本当に久しぶりねぇ!」 「千夏さん、海外留学から戻られたんですよね! 会いたかったです!」 ふたりは玲実の存在など視界に入っていないかのように千夏を取り囲み、満面の笑みで迎え入れた。千夏の実家は政財界に太いパイプを持っており、譲貴が勤める大手IT企業「広川テック」の役員昇進に絶大な影響力を持っているという。 呆然と立ち尽くす玲実に気づいた明美は、あからさまに忌々しそうな顔で眉をつり上げた。 「ちょっと、玲実! 何を突っ立ってるの! 大事なお客様がいらしてるのよ。早く上等なお茶と点心を用意してきなさい!」 「……かしこまりました」 玲実は胸の奥のざわめきを抑え込み、自分に言い聞かせるように静かに頭を下げてキッチンへ向かい、丁寧にお茶を淹れ始めた。 ――その時、リビングから明美のよく通る声が漏れ聞こえてきた。 「それにしても千夏さん、留学から戻られてますますお綺麗になられて。本当に……千夏さんが留学さえしていなければ、譲貴のお嫁さんはあなただったはずなのにねぇ。どこの馬の骨とも知れない女と違って、千夏さんなら広川家にも箔がついたのに」 沙也加も「本当ですよ、お母様! 千夏さんがお義姉さんなら自慢できたのに」とクスクス笑いながら同調する。 すると、譲貴がどこか照れを隠すような、曖昧な苦笑い混じりの声で口を挟んだ。 「母さん、そんな言い方するなよ。……玲実だって、一応は俺の妻なんだからさ」 一見すると妻を庇うような言葉。だがそこには、玲実への誠意や愛など微塵もなかった。ただの世間体を気にした形ばかりの言い訳であり、「一応」という言葉の端々に、千夏への気遣いと媚びが透けて見えていた。 千夏はそんな譲貴の態度に満足そうに目を細め、甘ったるい声を出す。 「ふふっ、譲貴さんって本当に優しいのね」 キッチンでその会話を耳にした玲実は、胸に小さな棘が刺さるような痛みを覚えながらも、深く息を吐き出した。お茶と点心をトレイに載せ、気持ちを整えてリビングへと戻る。 だが――リビングの入り口に足を踏み入れようとしたその瞬間、玲実の視界が異様な光景を捉えた。 ソファに優雅に腰掛ける千夏の前に、夫である譲貴が――まるで忠誠を誓う騎士のように、恭しく片膝をついていたのだ。 譲貴は手にした高級感のあるベルベットの小箱からネックレスをつまみ上げ、玲実にはこの三年間ただの一度も見せたことのない、蕩けるように甘く熱を帯びた眼差しを千夏へ注いでいた。 「千夏、おかえり。これ、ずっと君に渡したかったんだ。さっきは母さんがああ言ったけど……俺の気持ちは変わらない。君のような美しく気品のある女性にこそ、一番似合うと思ってね。……受け取ってくれるかい?」 千夏は得意げに口元を歪め、わざとらしく潤んだ瞳で譲貴を見つめ返す。 「まあ、譲貴さん……本当に私にくださるの? 嬉しい……」 玲実は息を呑んだ。 元特殊部隊員としての研ぎ澄まされた動体視力が、その場の空気を、光を、そして譲貴の指先にある装飾品を無情にも0.1秒で捉えてしまう。 (嘘よ……見間違いだわ……) 理性が激しく否定を叫ぶ。だが、玲実の卓越した観察眼は、プラチナの細工に刻まれた微細な傷、留め具の独特な形状、そして光を吸い込んで妖しく輝く群青のサファイアを、寸分の狂いもなく識別していた。 それは、実家が困窮した際に手放さざるを得ず、結婚前に玲実が自身の貯金をすべて差し出し、譲貴に頼み込んでオークションで競り落としてもらった――殉職した亡き母の、この世にたった一つの形見だった。 呆然と立ち尽くす玲実の目の前で、時間は残酷なほどスローモーションに流れる。 譲貴は千夏の背後に回り込むと、愛おしげに彼女の白い首元へネックレスを回し、カチリと留め具を留めた。 その小さな金属音が、玲実の鼓膜を銃声のように貫いた。 ――「玲実だって、一応は俺の妻なんだから」。 先ほどのリビングでの言葉が、醜い残響となって脳内で木霊する。 妻という形だけの仮面を被せられ、裏では亡き母の形見を別の女へ捧げる道具にされていたのだ。 胸の奥深く、信じ切っていた土台が音を立てて崩壊していく。 悲しみなどという生ぬるいものではない。それは、自らの愚かさに対する底知れぬ絶望と、三年間を汚された激しい自己嫌悪だった。 指先の神経から急激に体温が失われ、感覚が麻痺する。 ガシャアアアンッ――! 静寂を切り裂き、トレイが床へと叩きつけられた。 陶器の急須と湯呑みが粉々に砕け散り、熱い茶と茶菓子が無残に絨毯を汚す。 「ちょっと何してるのよ! お気に入りの絨毯が台無しじゃない! この不器用な役立たずが!」 明美の甲高い金切り声が響く。 だが、その声は玲実の耳には届かない。 玲実はゆっくりと顔を上げた。 そこに浮かんでいたのは、かつての従順で控えめな「広川玲実」の顔ではなかった。 瞳の奥に灯っていた光は完全に消え失せ、底知れぬ闇と、凍てつくような絶対零度の殺気だけが渦巻いている。主婦という仮面が粉々に剥がれ落ち、戦場で無数の命のやり取りを見届けてきた「軍神」の気迫が、その全身から音もなく溢れ出していた。 あまりの気配の変貌に、リビングの空気が一瞬で氷点下まで凍りつき、明美も沙也加も、勝ち誇っていた千夏すらも、本能的な悪寒に息を呑んで硬直する。 玲実は千夏の首元を、感情の抜け落ちた冷たい視線で射抜いた。 その唇から漏れ出た声は、低く、静かだったが、聞く者の背筋を芯から凍らせるほどの重量を孕んでいた。 「……譲貴さん」 玲実は、一歩、また一歩と前へ踏み出す。その歩みには微塵の揺らぎもなく、獲物を追い詰める捕食者のそれだった。 「どうして、それを彼女に着けているの?」 「玲実、これは……その、仕事上の付き合いでだな……」 譲貴は妻の放つ異常な威圧感に気圧され、額に脂汗を浮かべながら後ずさりする。 玲実は譲貴の言い訳を完全に遮り、冷徹な刃のような声で問い詰めた。 「私の母の形見よ。私があなたを信じて、買い戻してもらった……私の命よりも重いもの。それを――なぜ、その女に差し出しているのかと聞いているのよ」

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章一覧

全60章

  1. 第1章第1章 伝説の帰隠と、忍び寄る影
  2. 第2章第2章 奪われた形見と、冷酷な侮蔑
  3. 第3章第3章 踏みにじられた尊厳、冷え切った約束

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