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第1章 伝説の帰隠と、忍び寄る影

「秋山一等陸尉、君の退職届を受理した」 基地の司令室。重厚な執務机を挟み、上官である斎藤義弘一等陸佐は、沈痛な面持ちで目の前の書類を見つめていた。 机の上には、退職届とともに、殉職した両親の遺骨受領に関する特例手続きの書類が置かれている。 斎藤は書類を指先で軽く叩き、静かに告げた。 「特殊任務中に殉職されたご両親の遺骨だが、規定の手続きと保安上の理由から、正式な引き渡しが可能になるのは三年後となる。……秋山、三年後に必ず迎えに来てやってくれ」 「了解いたしました。三年後、必ず引き取りに参ります」 秋山玲実(あきやま れみ)は寸分の狂いもない姿勢で直立し、凛とした声で答えた。 防衛大学校を首席で卒業し、陸上自衛隊最精鋭の特殊作戦群――通称「ハヤブサ」で史上最年少の隊長を務め上げた、生ける伝説。それが彼女の真の姿だった。 斎藤は痛惜の念を隠しきれず、深く息を吐きながら玲実を見据えた。 「しかし……君ほどの才能を前線から失うのは、国にとってあまりに痛恨の極みだ。なぜそこまでして、軍を去る決断をしたのだ?」 その問いに、玲実の瞳に柔らかな光が灯る。彼女は背筋を伸ばしたまま、静かに胸の内を明かした。 「両親の、最後の心願だからです。『自分たちと同じ道を歩ませたくない。玲実には軍を離れ、普通の温かい家庭を築いて幸せになってほしい』と……。命を賭して国を守り抜いた両親の願いを、今度は私が叶えたいのです。一人の女性として、穏やかな日常を生きてみたいのです」 その揺るぎない覚悟を受け止め、斎藤は静かに頷いた。 「……そうか。ご両親の思いを無下にはできんな。分かった、君の新たな人生を祝福しよう。三年後、笑顔でご両親を迎えに来るのを待っている」 「はい! これまで大変お世話になりました!」 玲実は寸分の隙もない美しい敬礼を交わし、慣れ親しんだ誇り高き戦場を後にしたのだった。 ――それから、三年。 広川家の広々としたキッチンに、出汁の優しい香りが漂っていた。 エプロンを身につけた玲実は、手際よく夕食の小鉢を並べていく。かつて銃を握り、極限の任務に対峙していた手とは思えないほど、その所作は家庭的で穏やかだった。 「奥様、今日も本当に手の込んだお料理ですね。いつも旦那様のために尽くしていらっしゃって、旦那様はお幸せ者ですよ」 長年広川家に仕える家政婦が、心底感心したように目を細めた。 玲実は照れくさそうに小さく微笑み、リビングの壁掛け時計を見上げる。 「譲貴さん、今日も遅くまでお仕事が大変みたいだから……家では少しでもリラックスしてほしいの」 過酷な軍務を離れ、手に入れた慎ましくも穏やかな日々。両親の願い通り、一人の妻として夫を支える生活に、玲実はささやかな幸福を感じていた。 そして明日はいよいよ、約束の三年が満ち、両親の遺骨を引き取りに行く日だ。夫の譲貴も「一緒に行く」と約束してくれている。両親に、温かい家庭を築いている姿を報告できるはずだった。 その時、玄関のドアがガチャリと開いた。 「ただいま」 夫・広川譲貴の声だ。玲実は笑みを浮かべ、足早に玄関へと出迎えた。 「お帰りなさい、譲貴さ――」 玲実の笑顔が、途中で凍りついた。 玄関に立っていたのは夫だけではなかった。譲貴のすぐ隣に、華やかなブランドもののワンピースを纏い、完璧なメイクを施した若い女性が、親密そうに寄り添っていた。 譲貴の部下である南雲千夏(なぐも ちなつ)だった。 「あ、玲実。今日から千夏をうちに泊めることになったから。部屋、適当に用意しといて」 譲貴は何の後ろめたさもない様子で、こともなげに言い放ったのだった。

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章一覧

全60章

  1. 第1章第1章 伝説の帰隠と、忍び寄る影
  2. 第2章第2章 奪われた形見と、冷酷な侮蔑
  3. 第3章第3章 踏みにじられた尊厳、冷え切った約束

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