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病院を後にした桜子は、再び自分の車の運転席に滑り込んだ。 エンジンをかける。低い唸り声と共に、ヘッドライトが前方の暗闇を照らし出した。 彼女はアクセルを踏み込み、病院の駐車場から車を発進させた。 夜の東京。きらびやかなネオンが、フロントガラスを次々と滑っていく。そのどれもが、今の桜子の目には色褪せて見えた。 向かう先は、世田谷区にある西園寺本家。 重厚な鉄の門が静かに開き、車は手入れの行き届いた砂利道を進んでいく。車を停め、冷たい夜気の中を歩いて母屋の玄関へと向かった。 出迎えたのは、ベテランの家政婦である木村だった。 「桜子様、お待ちしておりました」 「静様は?」 「奥の茶室にてお待ちでございます」 桜子は頷き、磨き上げられた廊下を静かに進んだ。茶室の障子戸の前で立ち止まり、一度、居住まいを正す。 「桜子でございます」 「お入りなさい」 凛とした声に応え、静かに戸を開けた。 茶室の中央、上座には西園寺家の絶対的な女主人、西園寺靜が座り、静かにお茶を点てていた。 桜子は畳の上に正座し、指先を揃えて深く頭を下げた。 「夜分遅くに申し訳ございません」 静は茶筅を動かす手を止め、その鋭い視線を桜子に向けた。値踏みするような、全てを見透かすような目だ。 「顔を上げなさい」 桜子はゆっくりと顔を上げた。そして、何の躊躇もなく、はっきりとした声で言った。 「静様。暁様との離婚をお許しください」 一瞬、茶室の空気が凍りついた。畳の擦れる音も、庭の虫の声も聞こえなくなる。 しかし、静は少しも動揺を見せなかった。 「……理由を」 短く、そう問うた。 「暁様のお心は、私にはございません」 桜子は淡々と事実だけを述べた。そこには、何の感情も乗っていなかった。 静はしばらく沈黙し、桜子の顔をじっと見つめていたが、やがて、小さく頷いた。 「わかりました。あなたの意思は尊重しましょう。ただし——」 静の冷ややかな声が、茶室に響く。 「西園寺家の体面を傷つけることは許しません。暁の新たな伴侶としてふさわしい代わりの聯姻相手を見つけるまで、表面上の婚姻関係は維持しなさい。それが、この家を出るための条件です」 一族の利益を最優先する冷徹な計算。桜子はその言葉に微塵も驚かず、ただ静かに頷いた。 「……ありがとうございます。承知いたしました」 再び深く頭を下げ、感謝を述べた。これ以上、この場所にいる理由はない。 茶室を退出すると、張り詰めていたものが切れ、安堵のため息が漏れた。 本家を後にし、再び自分の車に乗り込む。エンジンをかけ、自宅である高級マンション、レジデンス泰平へと車を走らせた。 これで、終わらせることができる。 マンションの地下駐車場に車を停め、エレベーターに乗り込む。居住階のボタンを押した。 チーン。 エレベーターが居住階に到着し、扉が開いた。 その瞬間、桜子は廊下に見慣れない光景を目にした。数人の作業員が、大きな段ボール箱を次々と向かいの部屋である3205号室に運び込んでいる。 桜子の視線が、無造作に積まれた箱の側面に貼られた伝票に引き寄せられた。 そこには、太いマジックで『高橋結衣 様』と書かれていた。 桜子の瞳孔が、カッと開いた。 その文字を、何度も何度も見つめる。3205号室。それは、自分の部屋の、真向かいの部屋だ。 桜子は、乾いた笑いを漏らした。 西園寺暁。あなたという人は、どこまで私を侮辱すれば気が済むのだろう。 彼女はエレベーターを降り、自分の部屋に向かって歩き出した。その足取りには、先ほどまでの安堵感など微塵も残っていなかった。 心は、冷たく、固く閉ざされていく。

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章一覧

全150章

  1. 第1章チャプター 1
  2. 第2章チャプター 2
  3. 第3章チャプター 3

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