メインコンテンツへスキップ

チャプター 3 その夜の女を調べろ

壁まで吹っ飛ばされた松本結翔は、背中を強打し、苦痛に顔を歪めてうめいた。

「てめえ、何しやがる……!」

激昂して詰め寄ろうとした松本だったが、相手の顔をまともに見た瞬間、まるで頭から冷水を浴びせられたかのように固まった。——小島、隼人。

次の瞬間には、彼はガバッと腰を折り、媚びへつらった声でまくしたてていた。「こ、小島社長! まさかまだホテルにいらっしゃったとは露知らず、とんだご無礼を! どうか、どうかお許しください! 誠に申し訳ございませんでした!」

そう言いながら、彼の目は自然と、隼人の手元へと吸い寄せられた。

その手が、女の腰を逃がさぬとばかりにがっしりと掴み、二人の身体は隙間なく密着していた。

どう見ても、普通な関係ではなかった。

まさか……

(七海のあの言葉——昨夜、小島社長と一緒にいたというのは、まさか真実だったのか?)

松本は、背筋が凍る思いで思考を打ち切った。

(もしそれが事実なら——俺は、よりによって小島隼人の女に手を出したことになるのか?)

クビになるだけなら、まだマシだ。 (もし隼人が七海にほんのわずかでも執着していたら、俺は、生きてここを出られる保証すらない。)

そこまで考えた松本は、生きた心地もせずに隼人の顔色を盗み見ながら、おずおずと口を開いた。

「も、もしや小島社長は、山口秘書と、その……顔見知りでいらっしゃいますか……?」

隼人は、ただ冷ややかな一瞥をくれただけだった。口を開きもしない。だが、その絶対的な威圧感だけで、松本は身が竦む思いだった。

内心は恐怖でガタガタだったが、松本は必死に平静を装い、取り繕った。「こ、小島社長、これはその……山口秘書とは、たまたまここでお会いしてですね、本当に、ちょっとした世間話をしていただけでして……!」

隼人は薄く笑った。それは、嗤笑と呼ぶにふさわしい冷たさだった。「……立ち話、だけで?」

「い、いえ……その、ちょっとした行き違いというか、意見の衝突がありまして……。ですが、本当に些細なことで!」 松本は慌てて言葉を継いだ。「もし小島社長が山口秘書にご用向きなら、わ、私はこれにて、お邪魔するといけませんので、失礼いたします!」

言い終わるが早いか、松本はまるで脱兎のごとく、転がるようにその場から逃げ出した。

一歩でも動きが遅れれば、後ろに立つ“生ける閻魔”に、文字通り始末される——そんな強迫観念に駆られていた。

松本の姿が完全に消えたのを見届けてから、七海はようやく、張り詰めていた息を深く吐き出した。心臓は、まだバクバクと嫌な音を立てている。

だが、隣に立つ隼人の気配に、七海の心臓はさっきとは別の意味で跳ね上がった。どう顔を合わせればいいのか、まったく分からない。

さっき、咄嗟に松本に言ってしまった——「昨夜、小島社長と一緒にいた」と。まさか、聞かれてた? あの距離なら、もしかして……

もし隼人に、自分こそが“昨夜の女”だとバレたら、……

七海は想像を必死に打ち切った。

それなのに、昨夜の熱に浮かされたような光景が、勝手に脳裏に蘇ってくる。 体中に散らばる、昨夜の痕跡が頭をよぎり、七海は弾かれたように服の襟元をぎゅっと掻き合わせた。

「……どういうことか、説明してもらおうか」

男の、耳の奥にまで響く低い声だった。

隼人の表情に、何の変化もないのを盗み見て、七海はほんのり安堵した。(どうやら聞かれてはいなかったらしい)

彼女は懸命に微笑みを作ると、できるだけ自然な口調で答え始めた。

「小島社長、私たちは、この度社長が買収された大和株式会社の社員で、私は秘書課の山口七海と申します。先ほど、失礼いたしました男性は、プロジェクト主管の松本結翔です」

真実を知られるわけにはいかない七海は、必死で嘘を積み重ねた。「たまたまこちらでお会いしたので、少し、仕事の話を……」 それで……まあ、ご覧になった通りの、ちょっとした行き違いというか……」

言い終えた七海は、緊張でカチコチになりながら隼人の顔色を窺った。

我ながら、かなり苦しい言い訳だった。

底知れない湖のような、その深い瞳と視線が絡むと、見透かされている、そんな錯覚に七海は囚われた。

けれども隼人は、ほんの一瞬だけ眉をひそめると、それ以上は何も言わず、ただ軽く頷いただけだった。

「……分かった」

その一言に、七海は小さく息をついた。

が、直後に七海の心臓はまたもや跳ね上がった。

「大和の秘書なら、ちょうどいい。過去5年分の取引明細と、簡易な財務諸表を用意してくれ」

彼は腕の黒のランゲの腕時計に目をやった。「明日、社長室まで届けるように」

七海は、一瞬面食らった。

小島グループのような大手企業に比べれば、大和など「吹けば飛ぶような小草」に過ぎない。

その小島グループのトップに立つ隼人が、よりにもよって、こんな零細企業の買収を直々に? どう考えても、不自然すぎる。

七海には、その理由がまったく読めなかった。

自分は秘書といっても、平社員同然の、ただの雑用係だ。

新任社長への資料準備なんて、本来は自分の仕事ではない。

けれど……

七海は隼人の顔をチラリと盗み見たが、逆らうことなど到底できず、ただコクコクと頷くしかなかった。

「は、はい……かしこまりました、小島社長」

そこへ、スーツ姿の眼鏡をかけた、いかにも有能そうな男が歩み寄ってきた。隼人の秘書らしい。「社長」

隼人が腕を解いた。

腰を掴まれていた感覚が消え、七海は今さらのように悟った——さっきまで二人が、どれほど密着していたのかを。途端に、顔から火が出るほど恥ずかしくなる。

隼人をこっそり窺うが、彼はいつもの無表情に戻っている。それを見た七海は、逃げ込むようにエレベーターへと滑り込んだ。

エレベーターのドアが、ゆっくりと閉まりきろうとした——その寸前、七海の耳に、またあの低い声が飛び込んできた。

「調べろ。——昨夜、俺のスイートに侵入した“女”を」

その一言に、七海の心臓が、恐怖で一気に喉元までせり上がってきた。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

続きを読む

章一覧

全158章

  1. 第1章第1章 社長と、過ちの一夜
  2. 第2章チャプター 2 逃げられない
  3. 第3章チャプター 3 その夜の女を調べろ

新着