/0/24256/coverbig.jpg)
チャプター 3 その夜の女を調べろ
壁まで吹っ飛ばされた松本結翔は、背中を強打し、苦痛に顔を歪めてうめいた。
「てめえ、何しやがる……!」
激昂して詰め寄ろうとした松本だったが、相手の顔をまともに見た瞬間、まるで頭から冷水を浴びせられたかのように固まった。——小島、隼人。
次の瞬間には、彼はガバッと腰を折り、媚びへつらった声でまくしたてていた。「こ、小島社長! まさかまだホテルにいらっしゃったとは露知らず、とんだご無礼を! どうか、どうかお許しください! 誠に申し訳ございませんでした!」
そう言いながら、彼の目は自然と、隼人の手元へと吸い寄せられた。
その手が、女の腰を逃がさぬとばかりにがっしりと掴み、二人の身体は隙間なく密着していた。
どう見ても、普通な関係ではなかった。
まさか……
(七海のあの言葉——昨夜、小島社長と一緒にいたというのは、まさか真実だったのか?)
松本は、背筋が凍る思いで思考を打ち切った。
(もしそれが事実なら——俺は、よりによって小島隼人の女に手を出したことになるのか?)
クビになるだけなら、まだマシだ。 (もし隼人が七海にほんのわずかでも執着していたら、俺は、生きてここを出られる保証すらない。)
そこまで考えた松本は、生きた心地もせずに隼人の顔色を盗み見ながら、おずおずと口を開いた。
「も、もしや小島社長は、山口秘書と、その……顔見知りでいらっしゃいますか……?」
隼人は、ただ冷ややかな一瞥をくれただけだった。口を開きもしない。だが、その絶対的な威圧感だけで、松本は身が竦む思いだった。
内心は恐怖でガタガタだったが、松本は必死に平静を装い、取り繕った。「こ、小島社長、これはその……山口秘書とは、たまたまここでお会いしてですね、本当に、ちょっとした世間話をしていただけでして……!」
隼人は薄く笑った。それは、嗤笑と呼ぶにふさわしい冷たさだった。「……立ち話、だけで?」
「い、いえ……その、ちょっとした行き違いというか、意見の衝突がありまして……。ですが、本当に些細なことで!」 松本は慌てて言葉を継いだ。「もし小島社長が山口秘書にご用向きなら、わ、私はこれにて、お邪魔するといけませんので、失礼いたします!」
言い終わるが早いか、松本はまるで脱兎のごとく、転がるようにその場から逃げ出した。
一歩でも動きが遅れれば、後ろに立つ“生ける閻魔”に、文字通り始末される——そんな強迫観念に駆られていた。
松本の姿が完全に消えたのを見届けてから、七海はようやく、張り詰めていた息を深く吐き出した。心臓は、まだバクバクと嫌な音を立てている。
だが、隣に立つ隼人の気配に、七海の心臓はさっきとは別の意味で跳ね上がった。どう顔を合わせればいいのか、まったく分からない。
さっき、咄嗟に松本に言ってしまった——「昨夜、小島社長と一緒にいた」と。まさか、聞かれてた? あの距離なら、もしかして……
もし隼人に、自分こそが“昨夜の女”だとバレたら、……
七海は想像を必死に打ち切った。
それなのに、昨夜の熱に浮かされたような光景が、勝手に脳裏に蘇ってくる。 体中に散らばる、昨夜の痕跡が頭をよぎり、七海は弾かれたように服の襟元をぎゅっと掻き合わせた。
「……どういうことか、説明してもらおうか」
男の、耳の奥にまで響く低い声だった。
隼人の表情に、何の変化もないのを盗み見て、七海はほんのり安堵した。(どうやら聞かれてはいなかったらしい)
彼女は懸命に微笑みを作ると、できるだけ自然な口調で答え始めた。
「小島社長、私たちは、この度社長が買収された大和株式会社の社員で、私は秘書課の山口七海と申します。先ほど、失礼いたしました男性は、プロジェクト主管の松本結翔です」
真実を知られるわけにはいかない七海は、必死で嘘を積み重ねた。「たまたまこちらでお会いしたので、少し、仕事の話を……」 それで……まあ、ご覧になった通りの、ちょっとした行き違いというか……」
言い終えた七海は、緊張でカチコチになりながら隼人の顔色を窺った。
我ながら、かなり苦しい言い訳だった。
底知れない湖のような、その深い瞳と視線が絡むと、見透かされている、そんな錯覚に七海は囚われた。
けれども隼人は、ほんの一瞬だけ眉をひそめると、それ以上は何も言わず、ただ軽く頷いただけだった。
「……分かった」
その一言に、七海は小さく息をついた。
が、直後に七海の心臓はまたもや跳ね上がった。
「大和の秘書なら、ちょうどいい。過去5年分の取引明細と、簡易な財務諸表を用意してくれ」
彼は腕の黒のランゲの腕時計に目をやった。「明日、社長室まで届けるように」
七海は、一瞬面食らった。
小島グループのような大手企業に比べれば、大和など「吹けば飛ぶような小草」に過ぎない。
その小島グループのトップに立つ隼人が、よりにもよって、こんな零細企業の買収を直々に? どう考えても、不自然すぎる。
七海には、その理由がまったく読めなかった。
自分は秘書といっても、平社員同然の、ただの雑用係だ。
新任社長への資料準備なんて、本来は自分の仕事ではない。
けれど……
七海は隼人の顔をチラリと盗み見たが、逆らうことなど到底できず、ただコクコクと頷くしかなかった。
「は、はい……かしこまりました、小島社長」
そこへ、スーツ姿の眼鏡をかけた、いかにも有能そうな男が歩み寄ってきた。隼人の秘書らしい。「社長」
隼人が腕を解いた。
腰を掴まれていた感覚が消え、七海は今さらのように悟った——さっきまで二人が、どれほど密着していたのかを。途端に、顔から火が出るほど恥ずかしくなる。
隼人をこっそり窺うが、彼はいつもの無表情に戻っている。それを見た七海は、逃げ込むようにエレベーターへと滑り込んだ。
エレベーターのドアが、ゆっくりと閉まりきろうとした——その寸前、七海の耳に、またあの低い声が飛び込んできた。
「調べろ。——昨夜、俺のスイートに侵入した“女”を」
その一言に、七海の心臓が、恐怖で一気に喉元までせり上がってきた。
章一覧
全158章
/0/25456/coverbig.jpg)
/0/20338/coverbig.jpg)
/0/24808/coverbig.jpg)
/0/23008/coverbig.jpg)
/0/24260/coverbig.jpg)
/0/24546/coverbig.jpg)
/0/27221/coverbig.jpg)
/0/27166/coverbig.jpg)
/0/27154/coverbig.jpg)
/0/27104/coverbig.jpg)
/0/27150/coverbig.jpg)
/0/27134/coverbig.jpg)