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第2章
安物のビジネスホテルのベッドの上で、藤本雅は一夜を明かした。体中の関節が軋み、鈍い痛みが続いている。寝返りを打つたびに昨夜の記憶が蘇り、彼女はシーツを握りしめた。 バスルームの鏡に映る自分の姿は酷いものだった。顔色は青白く、首筋には隠しきれない赤い痕が点々と残っている。 雅はしばらく自分の姿を見つめていた。そしてゆっくりと手を伸ばし、冷たい水で顔を洗った。水滴が首筋を伝い、痕の上を流れ落ちる。鏡の中の自分が、泣いているように見えた。 ——泣いている暇はない。 彼女は唇を引き結び、スカーフを手に取った。痕を隠すように、ぎゅっと巻く。その動作は、屈辱ごと心を締め付けるようだった。 その時、けたたましく携帯電話が鳴った。親友の佐藤愛美の名前が表示されている。電話に出ると、愛美の泣きじゃくる声が鼓膜を打った。 「雅お姉ちゃん、おばあちゃんが…………!」 雅の心臓が冷たくなる。彼女はすぐに荷物をまとめ、痛む体を叱咤してホテルを飛び出した。 タクシーで東都大学医学部附属病院に駆けつけると、病室の前で不安げに立ち尽くす愛美を見つけた。 「愛美ちゃん、ハナおばあちゃんは?」 「意識はあるんだけど、持病の神経痛が酷くて……痛み止めもあまり効かないみたい」愛美は目に涙を浮かべている。 雅は頷くと、静かに病室のドアを開けた。ベッドの上で、佐藤ハナが苦痛に顔を歪めて浅い呼吸を繰り返している。 「ハナおばあちゃん、雅です」 彼女は優しく声をかけ、ハナの手を握った。そして、いつも持ち歩いている布製のポーチから数本の金色の鍼を取り出す。 「愛美ちゃん、少しだけ楽にしてあげるから」 雅は冷静に言うと、慣れた手つきでハナの腕や足の経穴に鍼を打っていく。昨夜の悪夢も、体の痛みも、今はすべて脇に押しやった。指先だけが、確かな技術を覚えている。 数分後、ハナの苦しげな呼吸が穏やかな寝息に変わった。顔から苦痛の色が消えている。 「すごい……ありがとう、雅お姉ちゃん」愛美が安堵の涙を流した。 その時だった。廊下の奥から、悲鳴と物が壊れる大きな音が響いてきた。 見ると、ロビーの方で若い男が狂ったように暴れている。亜麻色の癖毛が揺れ、左耳のブラックダイヤのピアスが照明を反射してきらりと光る。数人の医師や看護師が取り押さえようとするが、その度に突き飛ばされていた。 神経科の井上浩二医師が汗だくで、隣に立つ初老の紳士に話している。 「高井先生、お孫さんの状態は危険です。鎮静剤もこれ以上は…………」 高井源一郎と呼ばれた老人は、苦渋の表情で孫の高井蓮を見つめていた。 雅は暴れる蓮の症状を冷静に観察した。散大した瞳孔。常軌を逸した興奮状態。特定の筋肉の痙攣。これは単なる精神疾患ではない。 彼女は一瞬ためらった。目立ちたくない。特に鷹司家の追跡を考えると、身元を明かすのは危険すぎる。 だが、蓮の暴れる勢いが増し、担架が倒れ、近くにいた看護師が悲鳴を上げた。このままでは誰かが大怪我をする。 雅は小さく息を吐いた。体はまだ痛む。けれど、そんなことは言っていられない。 「愛美ちゃん、おばあちゃんのそばにいてあげて」 そう告げると、彼女は人垣をかき分けて中へ入っていった。 「危ない! 下がりなさい!」 井上医師が制止の声を上げる。 雅は無視した。布製のポーチから金色の鍼を三本抜き取る。 周囲の人々は何が始まるのかと固唾を飲んで見守った。 雅は蓮の攻撃の隙を突き、痛む体を押して彼の懐に滑り込む。蓮が反応するよりも早く、彼女の手首が翻った。三本の金鍼が、蓮の頭部の経穴に正確に打ち込まれる。その動きは流れるようで、一切の無駂がなかった。 蓮の狂乱がぴたりと止まった。彼の瞳から狂気が急速に色褪せていき、代わりに深い疲労と混乱が浮かび上がる。数秒後、彼の体から力が抜け、その場に崩れ落ちるように倒れた。 ロビーは死んだように静まり返った。 井上医師が呆然と呟く。 「きみは…………まさか…………失われたはずの『金鍼術』を…………?」 雅は答えなかった。冷静に鍼をしまい、蓮の脈を確かめる。 「一時的に眠らせただけです。根本的な治療をしなければ、また同じことを繰り返します」 彼女は源一郎に向かってそう言った。 源一郎は興奮した様子で一歩前に出た。 「お嬢さん、どうかお名前を、そしてどうか私の孫を救っていただきたい!」 雅は静かに首を振った。 「ただの通りすがりです」 これ以上目立つのは避けたかった。彼女は愛美の元へ戻ると、その手を引き、足早にその場を去った。 雅の去っていく後ろ姿を見つめながら、源一郎は複雑な表情で側近に命じた。 「調べろ、どんな手を使ってもあのお嬢さんの身元を突き止めるんだ」
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