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第1章
「離婚しましょう、鷹司さん」 藤本雅の声は静かだった。だがその手の中で握りしめられた離婚協議書は彼女の決意を物語るように硬くこわばっている。 重厚なホテルのスイートルームのドアを押し開けるとむわりと濃いアルコールの匂いが鼻をついた。部屋は薄暗い。カーテンは開け放たれ窓の外に広がる東京の夜景だけが唯一の光源だった。 ソファに沈み込むようにして鷹司暁の大きな影がある。指に挟まれた煙草の先が赤く明滅しその表情を闇に隠していた。 物音に気づいたのだろう。彼は顔を上げないまま低く掠れた声で尋ねた。 「誰だ」 雅の心臓がどきりと跳ねる。それでも彼女は平静を装い足を進めた。ガラスのローテーブルに離婚協議書を置く。その乾いた音がやけに大きく響いた。 その時初めて暁が動いた。彼が顔を上げる。昏い光の中で彼の黒い瞳は鋭利な刃物のようだった。全てを見透かすような視線が雅を射抜く。 彼はふっと嘲るような笑みを漏らしテーブルの上の書類に手を伸ばした。だがその腕が不自然に揺れる。 雅は彼の異変に気づいた。呼吸が普段よりずっと荒く浅い。月明かりに照らされた横顔が異常なほど赤く火照っている。 暁は協議書を掴み取るとその表題を一瞥し怒りを通り越したような笑い声を上げた。 「離婚?藤本家は君を俺に売り渡した対価をもう受け取ったはずだが」 その言葉が雅の胸を抉る。彼女は唇を噛み締めた。 「それは藤本家の取引です、私個人の意思とは関係ありません」 暁が立ち上がろうとする。しかし彼の体はぐらりと傾ぎローテーブルに手をついてかろうじて倒れるのを堪えた。 雅は思わず一歩後ずさる。警戒心が全身を駆け巡った。 「あなたどうしたの」 彼が顔を上げた。黒い瞳の奥で雅の知らない熱い欲望が渦巻いている。彼は喘ぐように呟いた。 「暑い…………薬を盛られた…………」 雅は息を呑んだ。状況の深刻さを瞬時に理解する。助けを呼びに行こうと踵を返した。 だが暁の方が速かった。彼は雅の腕を掴む。その力は人間離れしていた。 雅の体は抵抗もできずに引き戻される。彼の灼熱の胸板にぶつかった。アルコールと何か甘ったるい香水の入り混じった匂いが彼女を包む。 「助けて…………」 彼は掠れた声でそう言った。しかしその瞳から理性は完全に消え失せていた。 雅は必死でもがく。だが男女の力の差は圧倒的だった。彼女の抵抗は虚しいだけだ。 彼は雅をソファに押し倒した。冷たい革の感触と彼の燃えるような体の熱さが鮮烈な対比となって肌に刻まれる。 恐怖で雅の頭の中は真っ白になった。彼の眉骨にある浅い傷跡が目に入る。三年前の事故の痕だ。 彼の唇が乱暴に落ちてきた。それは罰であり略奪だった。 雅の目から涙が滑り落ちる。屈辱が彼女の全てを飲み込んでいく。 意識が遠のいていく。彼女はただ全てを受け入れるしかなかった。 どれくらいの時間が経っただろうか。体の上の重みがふっと消えた。暁は気を失ったように隣で眠りに落ちている。 雅は痛む体を叱咤しゆっくりと起き上がった。服は乱れ体は悲鳴を上げている。 ソファで眠る男の顔を見下ろす。彼女の瞳には憎しみと絶望の色が浮かんでいた。 床に散らばった離婚協議書を拾い上げる。震える手でそれを彼の体のそばに置いた。 彼女の人生を一夜にして破壊した男に最後の一瞥をくれる。そして地獄から逃げ出すようにふらつく足で部屋を飛び出した。 翌朝。暁は割れるような頭痛と共に目を覚ました。強烈な吐き気と、身体の奥に残る異様な熱の残滓が、昨夜が単なる泥酔ではなかったことを物語っている。 乱れたシーツ。枕元の一枚の紙。 「離婚協議書」 昨夜の断片的な記憶が蘇る。薬による熱。制御を失った自分。そして、女の抵抗と涙。 暁は眉をひそめた。 子供を作るつもりだったのか。だとしたら、離婚協議書を置いていったのはなぜだ。 ——離婚は障りか。本命は妊娠。鷹司夫人の地位を盤石にするつもりだったのだろう。 だが、それならなぜ離婚協議書を残す必要がある。 彼はますます苛立った。頭が痛む。まったく、あの女が何を考えているのか読めない。 卑劣なのは間違いない。愚かでもある。 暁は考えるのをやめた。憎悪と殺意が全身を支配する。 携帯を手に取り、小林誠に電話をかけた。 「藤本雅を見つけ出せ。昨夜のことを全て洗え。病院の記録も、行動歴も、背後に誰がいるかも——全てだ」 声は絶対零度の冷たさだった。
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