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―― 長岡華穂 ――

体中が鉛のように重かった。ラウンジを飛び出してからの記憶は途切れ途切れだ。雨に打たれ、泥だらけになった体で、私は茫然自失と歩き続けた。脳裏には、彼らの声が繰り返し響いていた。「奈々泉をいじめた悪女」「偽りの愛」「絶望のどん底に突き落とす」。その言葉が、私の心をさらに深くえぐった。

過去のいじめの記憶が、鮮明に蘇ってきた。大学時代、月岡奈々泉は、表向きは清楚で可憐な優等生だった。しかし、裏では私を含め、何人もの生徒に陰湿ないじめを繰り返していた。私の親友がいじめのターゲットになった時、私は彼女を庇った。それから、奈々泉の攻撃は私に集中した。

彼女は巧みに嘘をつき、私を孤立させ、精神的に追い詰めた。私のロッカーにゴミを入れ、教科書を隠し、時には私の悪口を大声で言いふらした。一番辛かったのは、私が暗闇恐怖症になった原因を作ったことだ。ある日、彼女は私を古い倉庫に閉じ込め、電気を消した。私はパニックに陥り、呼吸ができなくなった。また別の日には、屋上に私を閉じ込め、「ここから飛び降りたら楽になるんじゃない」と耳元で囁いた。それ以来、暗い場所だけでなく、高い場所もまた、私にとっては計り知れない恐怖の空間になった。

いじめは、私の心に深い傷を残した。私は人間不信になり、常に誰かに見られているような感覚に苛まれた。夜は悪夢にうなされ、暗闇の中で叫び声を上げて目覚めることもあった。そんな私を救ってくれたのが、「三尾光男」だった。

彼は、私の傷に寄り添い、優しく包み込んでくれた。私が暗闇恐怖症であることを打ち明けた時も、高所恐怖症のことを打ち明けた時も、 彼は「僕が君の光になる」と言ってくれた。彼は私を支え、私が再び笑顔を取り戻せるように尽力してくれた。彼の存在は、私の人生における唯一の光だった。彼に会うと、不思議と心が落ち着き、暗闇への恐怖も、高所への恐怖も和らいだ。

「君は繊細で美しい。その心を守りたい」

彼はそう言った。彼の言葉は、まるで魔法のように私の心を癒やした。奈々泉に傷つけられた私の心は、彼によって少しずつ修復されていった。私は彼を心から愛し、彼に全てを捧げた。

しかし、その全てが、彼らの策略だった。彼らは奈々泉の嘘を信じ、私を「悪女」と決めつけ、復讐のために私を騙し続けていたのだ。私の暗闇恐怖症も、高所恐怖症も、全て彼らの復讐計画に利用された。

「暗闇恐怖症の脆弱な女が、俺の言葉一つで簡単に落ちた」

敦人の声が、脳内で反響した。「高所もダメ、暗闇もダメ」——その嘲笑が、頭の中で繰り返し木霊した。 その言葉は、私の心を再び粉々に打ち砕いた。私が唯一信じた光は、実は深淵の闇だった。

雨脚はさらに強くなり、私は足元を滑らせて転倒した。膝を強く打ち、鋭い痛みが走った。しかし、体の痛みよりも、心の痛みが全てを覆い尽くしていた。

「馬鹿な私、馬鹿な私」

私は雨の中、地面に座り込み、虚ろな目で宙を見つめた。これまでの人生全てが、欺瞞と裏切りの上に築かれていた。私は、自分自身が滑稽な道化師のように思えた。突然、私は狂ったように笑い出した。雨音にかき消される、乾いた、魂のない笑い声だった。

その時、私のスマートフォンが激しく震えた。祖母の病院からだった。祖母が危篤状態だという知らせだった。私の唯一の肉親。私の体が、一瞬にして硬直した。

「おばあちゃん……」

私は震える声で呟いた。脳裏に、優しかった祖母の顔が浮かんだ。彼女はいつも、私の味方だった。奈々泉にいじめられていた時も、母が信じてくれなかった時も、祖母だけは私を信じ、慰めてくれた。

私は、立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。全身が震え、呼吸が乱れた。病院まで行く手段を探さなければならない。しかし、こんな雨の夜、タクシーはなかなか捕まらないだろう。私は必死に、光男に電話をかけた。彼ならば、きっと助けてくれる。彼ならば、きっと駆けつけてくれるはずだ。

着信音が虚しく鳴り響く。電話は繋がらない。私は何度も、何度もかけ直した。しかし、彼の携帯電話は、ただ鳴り続けるだけだった。私はメッセージを送った。「おばあちゃんが危篤なの。今すぐ来て。助けて、お願い」。

しかし、メッセージも既読にならない。私は絶望に打ちひしがれた。あの時、ラウンジで何をしていたのだろうか。奈々泉と笑いながら、私を貶める計画を立てていたのだろうか。

その時、一台の車が、私の目の前でゆっくりと止まった。窓が開き、見知らぬ男性が私を見ていた。

「大丈夫ですか。随分と顔色が悪いですが」

彼の声は、落ち着いていて、優しい響きがあった。私は、彼にすがるように、祖母が危篤であることを伝えた。彼は、何も言わずに私を車に乗せ、病院へと急いでくれた。

病院に着くと、祖母は既に意識が朦朧としていた。祖母の病室に入るなり、私は彼女の細い手を握りしめた。

「華穂……光男は。光男は来てくれたの」

祖母は、かすれた声で尋ねた。私の胸が締め付けられた。祖母は、三尾光男のことをとても気に入っていた。彼が、私の心を癒してくれたと心から喜んでいたのだ。

「ええ、光男さんも、すぐ来ます。大丈夫、おばあちゃん」

私は嘘をついた。祖母を安心させたかった。しかし、光男からの連絡は、一切ない。私は再び、彼に電話をかけた。今度は、呼び出し音が数回鳴った後、すぐに切れた。着信拒否されたのかもしれない。私は、彼の冷酷さに震えた。

祖母の手を握りながら、私は何度も光男に電話をかけ続けた。しかし、応答はなかった。祖母の呼吸は、次第に浅くなっていった。

「華穂……幸せになるのよ。私を、恨んではいけない」

祖母は、最後の力を振り絞るように、そう言った。

「おばあちゃん……」

私の目から、涙が溢れた。私は、祖母の顔に自分の頬を寄せた。

「華穂は、強い子だから。どんなことがあっても、負けてはいけない」

それが、祖母の最後の言葉だった。祖母の手から、力が抜けていくのを感じた。私の腕の中で、祖母は静かに息を引き取った。

私は、ただ祖母の体を抱きしめ、声を上げて泣き続けた。私の唯一の肉親が、逝ってしまった。私を無条件で愛してくれた人が、この世からいなくなった。

祖母の葬儀は、静かに執り行われた。私は、ただ機械のように動いた。光男からの連絡は、最後までなかった。葬儀の後、私は彼のSNSを確認した。そこには、奈々泉の投稿が載っていた。

奈々泉の投稿には、こんな写真が添えられていた。光男が、奈々泉のベッドサイドに座り、奈々泉の手を握って微笑んでいる写真。奈々泉は、風邪を引いたと書かれていた。「光男さんが看病してくれて、奈々泉は幸せ」とコメントが添えられていた。

私の祖母が死んだ夜、光男は奈々泉の看病をしていたのだ。私の心は、完全に砕け散った。私にとっての全てが、彼らにとっては取るに足らないものだった。私の存在は、彼らにとっては、奈々泉への復讐の道具に過ぎなかった。

私は、決意した。この子を、彼らの復讐劇に巻き込むことはできない。私は、中絶手術を受ける。そして、彼らが私の人生を破壊したように、私も彼らの人生を破壊する。

私は、かねてから希望していた国際NGOの紛争地帯への医療支援チームへの参加を決意した。危険な場所だ。しかし、今の私にとっては、この日本にいること自体が地獄だった。私は、この国から逃げ出したかった。そして、逃げるだけではない。私がいなくなった後、彼らが本当の意味で破滅するための準備をするのだ。

私の職場に辞意を伝え、支援チームへの参加を申し込んだ。上司は私の決意を尊重し、すぐに手続きを進めてくれた。

「長岡先生、出発は来月です。準備をしっかりしてください」

私は言った。

「出来るだけ早く出発したいです。一秒でも早く、ここから離れたい」

私は、彼らに復讐する計画を温めていた。結婚式当日、彼らが私を絶望の淵に突き落とそうとしたまさにその日に、私は彼らに、彼らが想像もしないほどの絶望を与えるだろう。

私はスマートフォンを取り出し、ある連絡先にメッセージを送った。件名は「結婚式のライブ配信依頼」。私の復讐は、この一通から静かに動き出す。

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読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全18章

  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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