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第2章
有栖川 詩織:Side
翌朝、トートバッグに入った分厚い茶封筒が、氷の塊のように感じられた。 私は一条夫人としての地位を最後にもう一度だけ使い、ICHJO.techのロビーへと足を踏み入れた。 空気は冷たく無機質で、金と野心の匂いがした。
蓮の秘書である佐藤さんがデスクから顔を上げた。その表情には、いつものようにストレスと同情が混じり合っていた。 「奥様。社長は、川島様とご一緒です」
「知ってる」私は歩みを止めずに言った。「すぐ終わるから」
すりガラスの向こうから、二人の声が聞こえてきた。 笑い声だった。 気楽で、親密な響き。 もう彼が私には決して向けない種類の、笑い声。
私はノックもせずにドアを押し開けた。
彼らは、別にやましいことをしていたわけではなかった。 巨大なデスクに置かれた事業計画書を二人で覗き込み、佳菜子さんの手が彼のアームに置かれているだけ。 でも、その親密さが、私の息を奪った。 彼らが一つのチームであり、一つのユニットであるという事実が。
二人は驚いて顔を上げた。 蓮の顔は、罪悪感ではなく、苛立ちで瞬時に硬くなった。 私は、邪魔者だった。
「詩織」彼の声は短く、刺々しかった。「今、取り込み中なんだ」
佳菜子さんはすっと体を起こし、完璧な同情の仮面を顔に貼り付けた。 「詩織さん、ごめんなさいね、昨日のこと。この買収案件が本当に大変で。蓮さんがいてくれて、本当に助かったわ」 彼女は、自分の重要性と、私の無価値さを、巧みに私に思い出させていた。
「そうでしょうね」私は平坦な声で言った。そして、まっすぐに夫を見つめた。「サインが一つ欲しいだけ。そうしたら、すぐに出ていくから」
私はデスクまで歩いていき、彼の前に封筒を置いた。 バサリ、と柔らかくも決定的な音がした。
「なんだ、これは?」彼は疑わしげに目を細めて尋ねた。
「IPの許諾書よ」嘘は、滑らかに、プロフェッショナルに出てきた。「ギャラリーがデジタルカタログ用に包括的な許諾を必要としてるの。『エーテル』の初期のコンセプトアートがたくさん展示されてるから」
彼はそれを手に取り、重さを確かめるように持った。 役員会議では人間嘘発見器のような彼が、この私を見透かすのではないかと、一瞬、恐ろしい考えがよぎった。 彼はペンで封筒をトントンと叩き、鋭い視線を私の顔に固定した。
私は彼の視線を受け止め、逸らさなかった。 傷ついた心のすべてを、冷たくプロフェッショナルな平静さへと注ぎ込んだ。
彼が封筒を開ける前に、佳菜子さんが見事に割って入った。 「蓮さん、取締役会が電話を待ってるわ」彼女の声には、切迫感が滲んでいた。「これは、後でもいいんじゃない?」
彼女は正しかった。 彼の世界では、これは些細なこと。 私の「趣味」の書類と、数百億円の取引。
彼は封筒から佳菜子さんへと視線を移し、決断はすでについていた。 「そうだな」と彼は唸った。
苛立ちを隠しもせず、彼は乱暴に封筒を破り、書類の束を取り出すと、まっすぐ最後のページをめくった。 二十ページにも及ぶ離婚合意書には、一瞥もくれなかった。
彼は最後のページの上部にあるタイトルを見た。『合意および署名』。
彼は署名欄に自分の名前を殴り書きした。 鋭く、怒りに満ちた黒いインクの斬撃。
息が喉に詰まった。 彼が二度見する前に、私は手を伸ばし、署名された紙を抜き取った。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
私が背を向けて去ろうとすると、佳菜子さんは小さく、見下すような笑みを浮かべた。 勝者が敗者に向ける、あの種類の笑みを。
私はオフィスを出て、ビルを出て、二度と振り返らなかった。
エレベーターの中で、私は握りしめた紙を見下ろした。 彼の署名。 終わった。
彼は、自分の結婚生活に終止符を打った。 そのことに、気づきもしないで。
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